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ウ・サギ

 今日は息子を連れて京都の〈保津川下り〉に行ってきた。屋根のない小さめの屋形船といったような舟で流れる約2時間の旅である。船頭さんたちが行程の1/3ずつ役割を交代しながら舟を流してくれる。乗る前は、映画一本みるくらいの時間だから、2歳の息子は、(ミニオンが出てくるわけでもないので、)飽きるだろうと思っていたが、案外楽しんでいた。

 ぼくも2時間は長いなーと思っていたのだが、船頭さんがバスガイドのように名所の解説をするわけではなく、お客さんをいじったりして和やかな雰囲気をつくってくれて楽しかった。20代、40代、70代くらいかと思われる3人が三様の笑いをとっていた。個人的には、おじいちゃんの、「あそこにいるのは鵜(う)、あっちは鷺(さぎ)ね。合わせてウサギ」と言ったのがおもしろくて一番覚えている。今思えば、美しい山間の保津川を舟で下るという状況にかなり助けられていると思う。ここでは何を言っても水に流してくれる。余談だが、「船頭多くして船山に登る」ということわざを、「みんなで頑張れば不可能はない」という意味に履き違えた生徒を思い出した。彼もここなら大丈夫だったかもしれない。

 今日は水量が少ないため普段は見えない岩が現れて、そのため船の操作は難しいらしいが、ぼくはとても嬉しかった。スリルが増すという意味ではなく、特別になったから。ちなみに、船頭さん曰く、台風が去った翌日が一生の思い出になるくらい最高らしい。この日は大阪湾まで30分で行けるとのこと。

 総じて船頭さんたちと大自然が織りなすエンターテイメントはとても素晴らしかったのだが、残念だったのは、所々ペットボトルなどのゴミが散見されたこと。夢の国で撮る写真に電線が写り込むのと比にならないくらい残念だった。人為の中での人為的欠陥ならまだ自業自得だなと思えるし、なんならアプリで修正して見て見ぬ振りをすることも吝かではない。しかし、自然の中での人為的欠陥は、新品の白シャツに撥ねたケチャップくらい気になる。洗濯しても残るしみのように今もあの景色が忘れられない。
 あの美しい自然にゴミを捨てられる人間がいるという事実は割り切れるものではないが、自分ではどうしようもない無効力感に苛まれる。大自然は、人間にとってどうしようもない畏怖の対象であるが、人間の中にもどうしようもないのがいる。同じ人間として恐怖する。

 毎日あの川を下る船頭さんたちは、どういう思いであのゴミを見ているのだろうか。

 もしかしたら、お客さんをいじったり軽妙なトークをしているのは、あのゴミのことをその時くらいは忘れたいという思いからの自己防衛手段ではないか。

 ぼくは、そんなことを考えた。もう「ウサギ」では笑えないかもしれない。

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