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わたしの「思い」を形あるものにとどめるために(1)

 権力を持つ人たちの歴史認識の貧しさや、いつもというわけではないにしても、行政が演じる底抜けの愚かしさを見せられることがあります。そんな理不尽さを目の当たりにすると、思わず自分がこの国に生まれたことを呪いたくなります。「理念がない」「視野が狭い」「歴史から何も学んでいない」。そうつぶやきながら、ではどうするべきかと自問しています。

 わたしの感情はその理不尽さを拒否しています。拒否はしていますが、積極的に抗(あらが)う術は持ち合わせていません。社会があることをする背景には長い歴史の積み重ねがあるからです。抗うことは、その歴史を否定することに繋(つな)がりそうです。それが恐ろしいのです。歴史を見直すことは必要ですが、否定してはいけません。どのような歴史であっても、事実は事実として見直すことが必要なのです。

 心の痛みは、放っておいて治るというものではありません。治るには治るために手当が必要です。そして治るまでにはとんでもなく長い時間が必要です。

 名古屋出入国在留管理局で死亡したウィシュマ・サンダマリさんの事件がありました。ウィシュマさんは管理局の中で体調不良を訴え続けていました。しかし、入管職員からは適切な治療を施されないまま死亡したのです。日本国籍を持っているか持っていないかで、簡単に人が死んでしまうほどの差が出るのです。もっとも「日本国籍を持っている人」であったとしても、性的少数者(LGBTQ+)であったり、さまざまな障害者であったり、帰化した在日コリアンであったり、被差別部落の出身者であったりすると、その人権の扱いに差が出るのもまた当然です。そして日本は男女格差の大きな国として有名ですが、それは同じ日本人である女性への性差別の結果です。男女格差を比べた2023年のジェンダー・ギャップ指数では、146の国のなかで125番目という低さでした。

 ウィシュマさんの事件以外にも、例えば津久井やまゆり園で起きた知的障害者殺傷事件がありました。神奈川県相模原市にある津久井やまゆり園の元職員の男性が、「事件を起こしたのは不幸を減らすため」だとして、障害者が自分で答えられるかどうかを聞いて、答えられないとナイフで刺して殺したという事件です。津久井やまゆり園の事件では、犯行を犯した男性が精神障害だったのではないかという話が持ち上がりました。精神障害なら、刑罰ではなく治療が必要になります。しかし結局、死刑が確定してしまいました。「犯行を犯した男性が精神障害だったのではないか」というのは、そう言えば皆が納得してくれると踏んだ誰かの弁なのでしょうが、これは精神障害というものを誤解しています。うつも精神障害だし、双極性障害(そううつ症)も精神障害です。精神障害はきわめて身近な疾病です。

 そして精神科病院に強制的に入院させられた患者の人権です。東京・八王子市にある民間の精神科病院「滝山病院」で、看護師が入院患者への暴行の疑いで逮捕されました。この事件は、数ある精神科病院の内部で行われている「治療」の実態をあらわにしたもので、まだまだ氷山の一角だと思います[https://webronza.asahi.com/national/articles/2023030300003.html]。日本精神科病院協会(日精協)の山崎学会長が東京新聞のインタビューを受けて、精神病患者の身体拘束は国の法律に則ったものだとし、「医者になって60年、社会は何も変わんねえんだよ。みんな精神障害者に偏見もって、しょせんキチガイだって思ってんだよ、内心は」「地域で見守る? あんた、できんの?」「地域でマンツーマンで診れるならいいが財源も人もいない。支えているのはいつもボランティアじゃねえか」と答えています[https://www.tokyo-np.co.jp/article/261541]。

 この会長の発言は乱暴ですが、日本の社会の一面も映し出しています。津久井やまゆり園の事件のような犯罪を避けるために精神障害者は精神科病院に閉じ込めておくべきだし、皆、必死で働いてやっと生活ができているのに、他人の世話までするゆとりはない。それが多数者の本音です。しかし風に流されるように「本音」のままに生きていて良いわけはないのです。わたしは、そう信じます。

 この稿は続きます。


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