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ドサクサ日記 4/4-10 2022

4日。
散歩をするといろいろなところに桜が咲いていて楽しい。誰もそれを見て酒を飲んだりしないが、雪柳(実家ではコメザクラと呼ばれていた)や木蓮も「春やでー」という感じ咲いている。「春だかしん?(静岡弁)」みたいな感じで咲かないところが花の良いところで、彼らが断定してくれるので多少肌寒くても春は春なのだ。藤棚には藤の花の蕾があった。薄い紫で美しい。G.W.の足音がする。

5日。
何か問題を起こした人にはそれぞれに問題があるとして、辺りを見回してから「ほら見たことか」と鈴鳴りになって礫を投げつける様を見ると、人間の醜さの端っこをしっかりと踏んづけたような気分になって、とほほ、みたいな感情が萎れた肺から抜けて脱力してしまう。自分も人間の醜さや社会の悪しき構造の一端を担っているわけで、何かを投げる前に自己嫌悪の気持ちが湧き上がる。消費せず進みたい。

6日。
熊本の被災地で出た廃木材を再利用して家具を作っている知り合いから、機材のラックが届いてテンションが上がった。試作ということだけれど、質感やサイズ感はばっちり。誰かの生活が天災に遭ってバラバラになった後、それを繋ぎ合わせて再利用できる仕組みがないのは寂しい。「瓦礫じゃなくて生活の一部」という東北の地で何度も聞いた言葉を思い出す。再利用について法的な壁のある災害廃棄物を何とかしたいという現地の友人たちの意思、それが形になってスタジオに設置される。なんと誇らしく温かいことか。元来、機材のラックは無機質で実用的なものが多い。スタジオとスタジオを往来するエンジニアは定型化していたほうが積み込みやすいのは分かる。しかし、家具として据え置きにするには味気がない。味丸出しのラック。自分の人生の味を染み込ませながら、大切に使いたい。

7日。
友人と終日マスタリング作業をした。新しい才能が伸び伸びと活動できる現場の重要性について話す。人との関係性のなかで、音楽までもが拗れていく人を見かける。ある種の「ダサさ」を抱えたまま、恥ずかしげもなく自分の信じる方向に突き抜けられるような場所を、キャリアが何周目かの我々が用意してあげられるか。ビートルズだって「ダサい」とされた年代がある。相対的な評価は時間のなかで揺れている。だからこそ、巻き取られてはいけない。本当にダサいのは権力の勾配を使って人に言うことを聞かせたり、誰かの尊厳を踏んづけたりすることだ。サウンドに関して言えば、常識とされる方法をはみ出すように間違うことは、案外難しい。「ダサい」なんて言葉は、大して新しくもない場所からやってくる。そんな言葉を置き去りにするようなパッションにエールを送り続けたい。それが僕らの仕事。

8日
ツアー用の楽曲のコード譜を一生懸命作った。レコーディングのときメモを取ればいいと分かっているのに、いつも忘れてしまう。書き起こしているうちに消えてしまう高鳴りがあるからだ。しかし、どうあれツアーの段階までには、自分の演奏パートを思い出さなければならない。ギター片手にサブスクの音源を聞き返しながら、必死で思い出す。あのときササッとメモしておけばと、深く後悔している。

9日
ROTH BART BARONのライブを観に国際フォーラムへ。彼らの音楽はとてもたおやかで美しい。もちろん、ある種の厳しさも孕んでいる。藪から棒な祝祭ではなく、参加者それぞれの命を祝福するような夜だったと思う。以前に単独公演を観たのは渋谷のライブハウスだった。会場に収まりきらない振動があった。国際フォーラムの音響の良さもあって、この夜は隅々まで彼らの美しい残響が伸びていた。

10日
同世代のバンドの録音の手伝いを始めた。メンバーはそれぞれに仕事を持っている。ゆえに、使える時間は少ない。前にもどこかに書いたが、だからこその美しさや力強さがある。仕事の合間に捻り出した時間で音楽を作るなら、最高の瞬間を積み上げる以外にやることはないだろう。もちろん、楽しいことばかりではない。一切合切を抱えて打ち鳴らし、歌う。それをなるべく美しく録音したいと思う。