答えがないのが嫌
「答えがない」ということが嫌なのかもしれない。
こうやって文章を書いていても最後にうまくまとめて「こういうことが言いたかったんです」と締めることがほとんど。
ライブのMCも次の曲につながるように考えているし、歌詞もできごと自体よりも価値観を表現するためにできごとを使っていることが多いし、自己分析や、物事を抽象化して本質を探すのが好きなのもそれが理由かもしれない。
これだというものが見つからないと気持ち悪くて先に進めなくなってしまうのはよく働くこともあるけどドツボにハマると効率がものすごく悪くなる。
そんな視点だから気づけなかったのだけど、この人の文章いいなあと思う人がいてその人の文章のことを「作者も含めた登場人物の誰も、特に救われない。状況が好転するわけでも、抱えた荷物が軽くなるわけでもない。ただ読み手の心の奥にいる、弱かったり若かったりする自分が報われた気分になる」と評した人がいて目からウロコが落ちたようだった。
そうか、何も答えも救いもないから心の奥まで入ってくるのか。答えがなくても寄り添うことができるのか。と生い茂る高い草が風に押されて見えなかった道が見えたような感じがした。
僕はどうして答えが欲しかったんだろうか。見つからない居場所の中で自分なりの答えだけが唯一の居場所だったり道しるべだったからだろうか。
突風に飛ばされず、荒波に流されず、自然な、ありのままでいるためには「芯」が必要で、僕はまだまだそれを見つけたりていないのだと思う。
今はその姿が僕が見せられるリアルだ。ありのままに頑張ってたどり着こうとしている。今の僕でしか見せられない輝きや希望がある。
特に救われない。状況が好転するわけでも、抱えた荷物が軽くなるわけでもない。ただ自分の心で暮らしていく。
いつかそれでいいよなあと思える日に辿り着けるように、満足するまで答えを探してみることにしよう。
「これがこうだったから、僕はこう思いました」
そんな小学生の作文みたいなことが、大人になって逆にできないのだなあ。
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