主観と客観と理想と現実と部屋とワイシャツと私
主観と客観にはギャップがある。
現実を見るのが恥ずかしかったり、主観こそが正しいと思いたい気持ちで、向き合うことができないから、それを埋めるトレーニングもしないままなあなあにしてしまう。
これはいい曲ができた!と思って録音して、時間が経って聞き返してみると全然いい曲じゃなかったりすることがあるし、ライブでかなり大きくパフォーマンスをしていたつもりが、映像を見返してみるとチョコチョコしているだけだったりすることもある。
そんな自分の情けない作品や姿を見るのはなかなかに辛い。
辛いのはなぜか。自分はもっと素晴らしいのだと思っていたいからだ。
だけど、リアルから目を背け続けるほど、主観と客観の差は広まっていく。歳も取れば取るほど周囲の目が厳しくなってくる。そうするとますます向き合わなくなる。
そのループはなかなか断ち切れず、そのうちループの中にいることすら忘れてしまう。残るのは劣等感だけだ。
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例えばマッサージをしていて、そんなに力を入れていないのに痛いと言われたとしたらどうするだろうか?
その時に「そんなに強くやってないから」とそのままやってしまうのが「主観的行動」。「あ、ごめん。」と緩められるのが「客観的行動」だ。
こうやって例えてみると「痛いなら緩めるでしょ」と思うのだけど、それが心の問題になった途端にうまくイメージできなくなったり、冷静さをなくしてしまったりする。
そして、ほとんどの人は自分の考えを伝えてはくれないし、何か言ってくれても、よそ行きの言葉だったりする。
そんな難易度の高い心理戦で、自己分析さえおこたってしまったらもう崖っぷち。孤独という奈落へ真っ逆さまである。
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全ての人の思うようにはいきられない。
人に合わせていきていたら自分を信じてあげられない。
だけど
「なりたい自分に近づく努力」
「ありのままでい続ける信念」
それさえ持っていれば人に合わせる必要などない。
それさえ持って入れば自然と好きだと言ってくれる人が集まるからだ。
じゃあ、今自分は「なりたい自分」に対してどこにいるんだろうか?
あいにく自分の姿は自分では見れないけれど、今は便利なもので映像機器も録音機器もある。ブログや日記で自分の考えを言葉にして可視化できる。
そして何よりも僕らの周りには人がいる。
周りにいる人は自分の鏡だ。
愚痴を言っている人の周りには愚痴をいう人が集まるし、頑張っている人の周りには頑張っている人や応援したい人が集まってくる。
周りにいる人が好きかどうか。
そういうことも自分をみつめるきっかけになる。
憧れの人にあまり相手にしてもらえない現実があるなら、今の自分はまだまだ憧れには遠いレベルだということだ。
そこを冷静に受け止めて、どうすればいいか考えて、行動していくことだけが現実を変えていく。
憧れの人に自分がどう見えているか聞いて見るのもすごくいいと思う。
自分より広く大きな知見を持った人からの意見はきっとレベルを引き上げてくれる。
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理想は頭の中にあるようで、現実の中にしかない。
逆を言えば現実さえ変えてしまえば理想になれるのだ。
僕は現実から目を背けて、ループの中に閉じこもっていた。
かなり出遅れてしまったけど、今からでも変えていきたいと思う。
誰がどう言おうと関係ない。
僕が変わりたいのだから。
そして、今周りにいる人たちが僕は好きだ。
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