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「YES」を奪いに行ってはいけない。

認められたい。必要とされたい。肯定されたい。
そんな気持ちで心のうつわが満たされてしまう夜が少なくない。

やるべきことを淡々とやっていけばいいのに、ベッドの上にゴロゴロと転がってツイッターのタイムラインと時間を不毛にスクロールする。

素晴らしい名言に出会って、いいねをポチッと押したところで僕の現状は変わらず、承認欲求ステーションの終点には虚しさが待っている。

そんなことは分かっているのに、この負のループにはどうしてもスパッと折り合いをつけられない。いや、分かっていないからうまくやれないのか。

不安で孤独な夜は、とにかく甘いささやきの聞こえる方向へ吸い寄せられそうになる。まるで食虫植物に食われるハエのように。

僕は休んでもいいし、逃げてもいいと思っている。
だけど責任を放棄して、環境や人のせいにしてはいけない。
ずっとそうしてきて、最後に残ったのは寂しさや虚しさだった。

今まで他人に「YES」と行ってもらいたくて生きてきた。
だけどこの1年でだいぶ自分を認めてあげる練習ができたと思う。

そしたら今まで承認欲求を通して見えていた「YES」が、違った見え方をしてきた。


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もし「YESしか言われない世界」があったらどうだろう。

きっと気持ち悪くて、居心地が悪いと思う。

あんなに肯定してほしいと思っていたのにどうしてこんなことを思うのか。
それは「YES=理解」ではないからなのだ。

僕らはそれぞれ違った考えや、環境や、基準を持っていて、どんなに仲が良くても、どんなに考えが似ていても、全てが一致することはない。

なのに言ったこと全てに「YES」という返事が返ってきたとしたら、それは逆に理解しようとする気持ちの怠慢ではないだろうか。

「僕の答えはNO。だけど君はその道を行ってみればいいんじゃない?」
というところがあってこそ理解は成立するのではないだろうか。

そう考えてみると、今までの「認められたい」では認めてもらえずとも寂しくなり、全肯定されても虚しくなってしまう。

他人に「YES」を求める限り承認など訪れることはないのだ。


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己の「YES」「NO」を持ちより、新しい価値観に刺激を受けながらも、互いをよしとできる関係。

それが理解者という存在ではないだろうか。

僕らの心が満たされる瞬間は「YES」と言われた時ではなく「理解」をされた時。

甘い匂いに吸い寄せられそうな夜もぐっと耐えて、まず自分をよしとするところから始めるのだ。

「YES」を奪いに行ってはいけないのだ。


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