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物書きの匂い ③

先生の邸宅には
三人の恋人と二人の女中と
男の使用人が一人
お清の教育係りの梅子
後は、先生と私
計九人で住んでいました
先生は独身であらせられ
四十に手が掛かるのに御結婚されない事を
たまにいらっしゃる叔母様に
再三言われて居られました

本邸と書斎のある書院造の離れは渡り廊下で繋がっていました

私が記憶の中で一番古いものは
先生の背中におぶさって
空腹に耐えながら、邸宅の門を潜った初夏の日
4つの歳でした
クチナシの花が甘く香っていたように記憶して居ります

「お清はかぐや姫みたいに竹から産まれたのを私が拐ってきたのだよ」

先生はご冗談か真実か
そんなことを申されます

私には親が居ないのです

きっと捨て子を先生が哀れに想い育ててくださったのでしょう

三人の恋人はとても美しく
毎夜、先生の寝室に代る代るお入りになります

八重姉さん、椿姉さん、鈴子姉さん
八重姉さんはおっとりと優しくて
椿姉さんは凛とした聡明な方
鈴子姉さんお身体があまりお強くないので
陽に透けて白い肌はお人形のよう
みな、優しくして下さいます

あの雨の日、渡り廊下を歩く足は重くのろのろとしておりました
その少し前、三人の姉さんの部屋へ遊びに行こうとしたら
障子を通して声が聞こえたのです

「先生は、お清をどうなさるつもりなのかしら?」
「本妻に?」
「まさか!それは無いでしょう」
「でも、お手を付けずに傍らに置いてるのは」
「まだ童女のつもりで扱ってらっしゃるのか」
「外へ嫁がせるおつもりでいらっしゃるのか」

外へ…嫁ぐ?
私は頭がずんと重くなり
障子に手を掛けずに通り過ぎ
そのまま、気付けば先生の書斎の扉を叩いていた

「お清か?」
「はい」
「まだ仕事中だが入りなさい」
「はい」

先生の斜め後に離れて座り
執筆されてる背中をぼんやりと眺めていた

私は嫁ぐの?
先生と離れて暮らすの?
私は先生の何?
恋人でも、女中でも、使用人でもなくて
私はこんなにも
こんなにも先生を
先生を?
自分の思考に驚きと戸惑いが渦を巻いた
女として見られたい
それは、同時に今までとは変わってしまう

お清は解らなくなっていた
女としての心が汚らわしくも思われた

なのに、不意に出た言葉は

「先生、抱いてください」

雨はいつの間にか上がり
さらさらとしたシーツの上で
お清は目覚めました
あのまま先生の腕の中で眠ってしまったお清を
女中を呼んで布団を用意させたのでした

障子から差し込む柔い光で目を覚まして
天井の木目などを視線でなぞり
寝起きの気だるさをもて余して居りました

離れは二間在り
一つは書斎で
もう一つは庭の見える六畳ほどの和室で
来客用に使われて居りました
出版社の方々や子弟さん方
先生の師事していらっしゃる
大先生と大先生の奥方

本邸にも勿論、客間は在りましたが
文士関係の方々はこの書院造をお気に入られて
よく此方へいらっしゃってました
独特の趣と硝子戸で囲われた朱色の絨毯廊下が
部屋を一周していて
季節の花花が彩る庭がお清も好ましく
梅子の目を盗んでは
離れに潜入して居りました
執筆中は呼ばれぬ限り入るべからず
と、暗黙の掟が御座いました
物書きとは難しいお心を抱えていらっしゃるものです
美しい恋人たちもその事をしゃんと弁えて居られました

幼い時分に邸宅へ来たお清だけは
先生が居ないと泣いて騒ぐので
ずっとお側を許されて居りました
置物の如く書斎では側でじっとして
小さな足をきちんと正座に整えて
片時も離れませんでした
それが大きくなった今でも
変わることなく時間さえあれば
書斎で過ごすのでした

先生は恋人方と睦合った後さえ
御自分の寝屋をお出になり
お清に添い寝なさるのでした
童女ならまだしも
お清はもう十四歳
女であります
周りは遠回しに嗜めるのですが
笑って誤魔化してお仕舞いになる

「そろそろ…」
襖越しに大先生の声が聞こえた
隣室にいらしてる
布団から這い出た私は襖の近くへ寄った
「まだ早いです!」
荒々しい声が響いた
先生?声を荒げる事なんてない方なのに
驚いた拍子によろけて襖に当り音を立ててしまった

「お清?起きたのかい?」

先生のいつもの優しいお声
私は襖をそっと開けた

「こんにちは」
私は所在なさげにご挨拶しました

「おぉべっぴんさんになって、すっかりお姉さんだなぁ」

大先生は部屋を震わすような大きな声で
上機嫌に仰った

「幾つに成った?」
「十四歳になりました」
座敷に正座して改めて頭を下げました

先生は普段から多弁な方では無いけれど
いつになく、しんとなさっておいででした

「お清ちゃんお饅頭好きでしょ、お上がりなさい」
大先生の奥方が優しいお声で仰ったので
変に、張り詰めていた空気がふわりとなりました
私は奥方のお隣を陣取り、お土産のお饅頭を頬張りました
甘過ぎないこし餡が上品で、皮と餡の絶妙な比率も完璧で絶品なのです
大先生夫妻はいつも私にこのお饅頭を買ってきて下さいます
密かにお饅頭先生と敬意を込め、心では読んでおりました
指先に薄皮がペトペトとくっついて苦戦していると
先生は私の指をお掴みになりご自分のお口の中へ入れてお仕舞いになりました
先生のお口の中でお饅頭の薄皮が歯と舌で削がれて行くのがくすぐったくて
クスクスと笑いが漏れました

「滝田君、なんとも艶やかな光景だなぁ」
滝田というのは先生のお名前でございます

「いつまで経っても滝田さんの中では幼子のままなのかしらね」
奥方もお顔を緩めて微笑されました

梅雨には少し早く庭の紫陽花がまだ小さな緑の花芽を広げ始めた頃でした

子供で居れる時間は限られていたのだと
この日の穏やかな空気を思い出す度
痛いほどに胸は締め付けられます

先生がお口に入れた私の中指と人差し指が
じんとして恋しくなります

この後

守られていた蚊帳を取り払われ
私は真実と避けられない未来とを突き付けられて行くのでした

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