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この街(コザ)のこと

沖縄県沖縄市
と言っても県外の人にはあまりピンと来ないらしい。沖縄県といえば那覇市くらいしか市名が出て来ないのではないだろうか。

人口約14万の県第二の都市。といえばそんなに大きな街なの?と意外そうに驚かれる。

音楽のまち、エイサーのまち、スポーツコンベンションシティ、国際文化観光都市、こどものまち。この街を表すとき、いろんなキャッチフレーズがある。
最近ではバスケットリーグの琉球ゴールデンキングスのホームタウンと言うと、結構知名度がある。

しかし、ちょっと年配の人なら「コザ」と言った方がわかるときもある。

沖縄は戦後22年間米軍に統治されていた。
その頃、この街は沖縄県コザ市と言う市だった。日本で唯一のカタカナの市名だったそうである。この「コザ」と言う市名は米軍に付けられたと言うのが定説である。
コザの中心部が胡屋(ごや)という地名で、筆記体でGoyaと書かれたのを見た米軍関係者がKozaと読み違えたため、コザになったというのが、ウソのようなホントの話である。(『沖縄市史 第4巻 自然・地理・考古編』(沖縄市総務部総務課 編、沖縄市役所、2008.3))

とりわけ、コザと米軍の関わりは深く、極東最大の米軍基地と呼ばれる嘉手納基地の門前町がコザであり、米軍マネーを求めて多くの人が移り住んだと言われている。最盛期は1960年代〜70年代のベトナム戦争の頃で、泥沼の戦争となり行きて帰って来れる保障のない戦いに、いつ出兵するかもわからない兵士達は恐怖を紛らわすために浴びるように酒を飲み荒れ狂ったという。そうやってバーやキャバレーなどには大量のドルが溢れ、週末の二晩もあれば家一軒建つほどの儲けになったという。
いきり立った米軍兵達を前にステージでロックなど演奏したら、下手な演奏をしようものならステージから引き摺り下ろされ、ビール瓶は飛んできて、ギターを奪われ、奪った兵士の方が上手かった、と言った話も聞く。そんな荒れ狂う米軍の観客をもうならせるような猛者達も現れ、紫やコンディショングリーン、マリーwithメデューサなどコザロックが生まれた。

しかし、多くの人々は荒れた米軍兵の引き起こす飲酒事故、麻薬、レイプなどの様々な事件や事故に恐れ怒り苦しんだ。

それを象徴する事件が沖縄が日本に復帰する2年前に起きた。1970年12月20日深夜。胡屋の一角で起きた米軍兵の運転する車と歩行者の接触事故。周りには多くの野次馬が集まり、事故処理の様子を眺めていた。この頃の沖縄では米軍兵がなにか事件を起こしても基地の中に逃げこめば逮捕も裁判を受けさせることもできずほぼ泣き寝入りだった。ここでも事故処理にやってきた憲兵は加害者の米軍兵を基地に返そうとしたものだから、野次馬達が憲兵に詰め寄ると、怖くなった憲兵は野次馬を鎮めようと威嚇発泡をした。それが引き金となり人々の怒りに火がつき、米軍車両80台以上が焼かれる騒動となった。

これが「コザ暴動」である。

「沖縄に人権はないのか!」と叫ぶ人々の声。米軍統治の抑圧に対する抗議だった。
結局死者はなく、沿道のレストランやホテルなども被害はない、この事件を目の当たりにした人からは「秩序ある暴動」だったと言われている。

こんな事件があったからか、年配の人ではコザと聞くと「恐いところ」と言う人もある程度はいる。

コザ暴動の4年後、沖縄本土復帰の2年後の1974年にコザ市は隣の美里村と合併し「沖縄市」となった。コザという米軍に付けられた名前を消し、ゆくゆくは県庁なども誘致して沖縄一の街となるよう希望が込められていた。

しかし、米軍統治時代の街並みを残し、人々は今でも愛着を込めてコザと呼ぶ。

中高年には独特な街並みとカルチャーのディープな街と思われているが、最近の沖縄市しか知らない若い人からは、何もないシャッター街とも言われている。

そんなコザの街にちょっとでも興味を持ってもらいたく、この街(コザ)のことを何回かに分けて、紹介して行きたい。

(つづく)

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