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「何者か」になることへのリミット

先日、アマゾンプライムでウォッチリストに入れたまま積ん読ならぬ積ん観していた映画の中から、なんとなく『SCOOP!』(2016年)を観た。

福山雅治演じる中年カメラマンがあるシーンで、二階堂ふみ演じる新人記者に「俺、きっと何者かになりたかったんだろうなー」みたいなことを言っていた。

その後、彼はある意味「何者か」にはなれたのだけど――。
正しく言えば、誰かにとっての、「何者か」。

社会にとっての「何者か」でいつづけることはできなかった。
時がたてば、社会からは忘れ去られてしまう。

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何者かになりたい、けれどなれそうにない。そんな未来がちらついてくる年齢になった。

そもそも「何者か」ってなんだろう。お金、名声、地位、権力を持つ人?
それらのうちどれかは大企業で働いていればそれなりのものは持てるし、地主とか財閥、名家のもとに生まれた人は最初からすべてを持っていたりする。

それでも皆、もがいているのは、「何者か」はきっと〈①自分の努力や工夫によって達成した境地を②人々に広く認めてもらう〉ことによって成立するからではないだろうか。

①と②が両方とも高いレベルで満たされるまで、人は「何者か」でない自分を見て苦しみ続ける。

少し前までは、容姿やクリエイティブな才能、ずば抜けた頭脳といった長所をもたない凡人が世界に名を残すには、政治家になるか犯罪者になるかぐらいのものだった(政治家も犯罪者も、社会の役に立っているかはともかく、インパクトを与えることはできる)。

しかし今はyoutubeやtiktok、instagramなどがある。いくらでも自分を表現し、売り込むすべはあるのだ。実際にそこからヒーローやヒロインが生まれている。

このようにチャンスは増えたけれど、それらを使いこなせるかは別問題だ。

①は自分を表現することで満たされるだろうが、②を満足させるには他者の承認が必要だ。他者に承認されるには、他者が何を望み、何を見たいのか、そして欲しているのか分析しそれに応えていく必要がある。

つまり、「何者か」になるには、(よほどの才能やカリスマ性がなければ)マーケティングスキルが必要だということになる。

自分のやりたいことだけむやみにやってもうまくいかないということだ。

「何者か」になりたいがなれるのだろうか、と悩み始めるのは社会人として数年働いて、自分の社会での立ち位置や、他人と比べてのスペック、特徴がわかり始める20代中盤ごろではないだろうか。

無駄な自意識を捨てて自身を社会の中で相対化して見られるようになると、「これが他者とくらべて〈自分〉と言える部分なのだ」ということがわかると思う。

その「自分自身、自分らしさ」を出していくことで、きっと誰かにとっての「何者か」にはなれる。難しいマーケティングスキルなんて必要ない。なぜなら、人は自分の知らないこと・できないことや持っていない性質に惹かれるからだ。自分では大したことないと思うことでも、発信すれば誰かの役に立ったり、琴線に触れたりすることがあるかもしれない。

今の時代の素晴らしいところは、誰かにとっての「何者か」になることで、社会にとっての「何者か」になるのにグッと近づくということである。

個人はネットによってつながっており、ネット内にはバーチャルな「社会」が存在している。そこでの話題や評価が広まるのは恐ろしく速い。

誰かにとっての「何者か」はすぐに社会にとっての「何者か」に昇華する可能性を秘めているのだ。

「世のため人のため」という言葉があるが、人のため=世のためになる時代なのだと思う。

だから現代において、「何者か」になることへのリミットはいつだって「今」なんだろう。

「今」が1番若く、変わりようがある。時間もある。いろんな人と出会える。先延ばしにしていてはチャンスが失われていくだけだ。

今動けば明日が変わるし、周りを変えられる。近くの、あるいはネット上の誰かにとっての「何者か」になる第一歩を踏み出せる。

自分ひとりの満足を得るのはそう難しいことではないが、社会の人々を満たすには一筋縄ではいかない。それを満たそうとする過程でしだいに大きいことができるようになり、社会にとっての「何者か」に近づける。

自分がどうしたい、こうなりたい!という思いに没頭せずに(もちろんビジョンを持つことは大事)、そろそろ世のため人のためにもはたらいてみるか~、くらいの気持ちで生きていく方が結果的に「何者か」になる確率は高いのかもしれない。

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