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あの世の会いたい人

週末、やるべきことがすべて日中で片付いてしまい、夜は特に予定がなかったので映画を観ることにした。
『黄泉がえり』、2003年公開だから今年でちょうど20年前の作品となる。
出演者の顔立ちとガラケーでそれが古い作品だと言うことがわかるが、それ以外に時の流れを感じさせるものはなかった。
以下、多少のネタばれを含む。

SFファンタジーの成功のカギはリアリティだと思う。
ハリー・ポッターがこれだけ人気を集めている理由のひとつは、魔法の世界や架空の生物が本当に存在するのではないかと思えることではないだろうか。
スターウォーズは明らかにSFだとわかって観ているが、それが過去や未来や何億光年も遠い世界には存在しているのではないかと思わせるリアリティがある。
この手の作品でリアリティを追求しなければ、作品は陳腐になる。
私が観た『黄泉がえり』は残念ながらその点での私の基準には達していなかった。無理なつじつま合わせや、伏線の置き方、CGの使い方も正直安直さが目立ってしまっているように感じた。

しかし、私は最後まで映画を見通した。
自身を登場人物と重ね合わせ、考え事をしながら観ていたのだ。

あの世に逝ってしまった人たちと会いたいか

というのがテーマだった。
真っ先に浮かんだのが父だった。次に祖父母と若くして旅立った仲の良かった友達だった。

ただ、その誰とも再び会いたいとは思わなかった。
映画のように一度死に別れた人たちと再会できることが良いこととは思えないのだ。
彼ら・彼女らとの間に何かしらの想いを残したとしても、生きている私たちの時は進み続けるのであり、後悔や思慕や情を背負って生きるのが使命だと思う。もう一度会って伝えたいことを伝え合ったとて、その刹那から逃れることはできない。
やり直しの効かないことがこの世の常であるが故に、私たちはその時々を懸命に生き、全力で命を愛することができる。
私たち生きる者と死者との間に「再び」が起き得てしまったら、その期待感と共に、「生」への怠惰が始まってしまうのではないか。


映画の中には、今はもう亡き俳優たちの笑顔があった。彼ら・彼女らはそこからもう歳をとることはない。過去の作品で彼ら・彼女らに再び会うことはあっても、彼ら・彼女らは過去に閉じ込められたままである。
過去は過去として取り扱わなければならない。
それが前に向かってでしか進むことができない「生」というものだ。

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