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「日本」を知ってから海外の旅へーーそれがぼくのこだわりだった。

前回に続いて「旅」の話。
なぜ「日本の旅」にこだわったのか?ーー前置き的な導入がちょっと長いですが、綴ろうと思います。そういう経緯があったからこそ、日本に対する想いが強くなった、という理解をしていただけると嬉しいです。

冒険家になりたかったぼくは、「冒険家になるためには若いうちに海外に出て異文化の中で揉まれたほうがいい」という信念のもと、両親を説得し、高校2年から3年の2年間、アメリカのワシントン州に留学した。

いまから30年以上前のこと。高校生が海外留学することは、まだまだ珍しい時代。いわゆる帰国子女と称される、父親の仕事の都合で高校時代を海外で過ごす人たちは当時もそれなりにいたものの、ぼくのような、あくまで自分の意思で海外に出て現地の高校に編入する変わり者(?)は稀有な存在だったように思う。しかも、2年間。いまはどうなのかわからないけれど、ぼくの時代の高校留学は、取得できる学生VISAが最長1年間しか許されていなかった。当初ぼくも1年間のつもりで、高校2年の1学期を終えた後、1年間休学してアメリカで学び、帰国後は復学する予定だった。それがーー

ぼくが住んでいたエリアは、想像を容易に超える田舎だった。なぜそこに住むことになったのか? ぼくが高校留学を申し込んだエージェントでは、留学先の州や都市を希望することはできなかった。唯一選択できたのは、住みたいエリアを「都市部/やや都市部/やや田舎/田舎」の4択に分け、いずれかを選べるのみ。冒険家を目指していたぼくは、もちろん「田舎」を選択。見事に、想像を超える「田舎」に送られたのだった。

アメリカの高校は4年間(中学は2年間)。通っていた高校の4学年の全校生徒は170人。1学年40人強。その170人は、高校を中心に、半径約30~40㎞圏に住む学生たちで構成されていた。想像してほしい。たとえば、東京の渋谷に学校が位置すると、南は鎌倉市、西は八王子市、北は春日部市、東は千葉市まで。その圏内に住む高校生が全員同じ学校に通ているにもかかわらず、全校生はたったの170人なのだ。1年目と2年目は異なるホストファミリーにお世話になっていたのだが、2年目に住んでいた家から一番近い近所までは、なんと4㎞離れていた。

その高校に通う外国人は、当然のように、ぼくひとり。「初めて日本人に会ったよ」と言う人も、決して少なくなかった。でも、だからといって、そこがアメリカ(アメリカ人)の面白さなのかもしれないけれど、ぼくのことをこれっぽっちも特別扱いしなかった。最初の数カ月は、思うように英語が喋れない。そればかりか、肌の色、髪の毛の色、目の色、体形…誰が見たってアメリカ人とは似ても似つかない外見なのに、分け隔てなく、他のアメリカ人の友達と同じように、ぼくと接してくれた。

家に帰ってもアメリカ人の家族が待っている。時代は30年以上前。インターネットなど存在しない。日本に住む両親や友人に日本語の手紙は時折書くものの、日本語を喋るのは、数カ月に一度の頻度で、コレクトコールで両親と数分間会話する程度。つまり、日本語を使う、ましてや話す機会は、皆無に等しかった。まわりは全員アメリカ人。話す言葉は終始英語。年齢は17歳前後。感受性豊かな高校時代。

ぼくは、面白いようにその環境を素直に受け止め、溶け込んだ。驚くことに、自分の顔を鏡で見るとき以外は、ぼく自身もまわりと同じ人種=アメリカ人だと思うようになった。夢で喋る言葉も英語。両親や日本の友人ですら、夢では英語を喋っていた。

楽しすぎるアメリカの高校生活。とても1年間では物足りなかった。もう1年延長したかった。留学エージェントと提携していた現地のコーディネーターと、その可能性について、会話を重ねた。通っていた高校の校長先生からは、1年延長して高校3年として他の学生と同じように学べば、同校を卒業できる約束を得た。そして、手続きのために一時帰国せざるを得ないものの、学生VISAを1年延長できるようになったのだった。

高校の卒業パーティー「プロム」ではKINGに選ばれるなど(ちなみに1年目は「ホームカミング」のKINGにも…)、2年目も、アメリカの高校生活をとことん楽しんだ。卒業する半年くらい前までは、そのままアメリカの大学に進学しようと考えていた。モンタナ州立大学に「ワイルドライフ・マネジメント」という学部があることを知った。冒険家を目指すぼくにとって、最適な環境だと考え、進学を画策し始めていた。ただ、結果的に、卒業後は帰国し、その後、日本の大学に進学した。

たしかに、両親から「大学は日本に帰ってきてほしい」と言われていた。高校留学させてもらい、しかも予定になかった2年間という期間を許してくれた両親の気持ちを考えると、「ここはいったん帰国すべきだ」と、そう結論づけたことも大きな理由だった。

しかし、もうひとつ。自分の中での理由があった。楽しいアメリカ生活の裏で、日本への想いが少しずつ強くなっていたのだ。「想い」とはーーこのままアメリカで生活を続け、その延長で冒険家として歩んでいくことになると、「アメリカって最高」「世界って面白い」という経験ばかりが自身の中で積み重なっていき、日本人として、日本を知らなさすぎるのではないか。日本に対して失礼なのではないかーーという意を含んだ「想い」である。

たとえば、誰かが「イタリアっていいよね」と言ったとする。その「いいよね」は、言葉を発したその人の、それまで見てきたモノやコトとの経験との比較になる。東京とイタリアしか知らない人の「イタリアっていいよね」と、世界100カ国をまわって来た人の「イタリアっていいよね」の違い。後者の「いいよね」のほうが、あきらかに深みがあるし、説得力がある。それは、他人に対して云々ではない。「さんざん世界をまわってきたけど、やっぱりイタリアっていいよね」という、自分に対しての納得度である。ぼくは、それを「日本」に対して行なうべきだ、と自身に言い聞かせた。まずは日本を知りたかった。自分に対して納得できるところまで日本を知って、そのうえで世界に出よう(冒険家を目指そう)と思った。日本に生まれた日本人として、「北極っていいよね」と言うときに、日本を知ったうえで、それでもやっぱり「北極っていいよね」と言える“日本人”冒険家になりたかった。

加えて、もうひとつ。日本人が好きになったこともある。正確には、日本人の女性が好きになった、というべきか。。

アメリカから帰国後、海外の高校を卒業して日本の大学に「帰国子女枠」(当時ぼくのような留学の場合は「海外生徒」という枠だった)で受験するための予備校に通っていたのだが、そこで、父親の仕事関係で長年ドイツに暮らしていた同い年の女性と知り合い、付き合うことになった。10年以上にわたって海外生活を過ごしてきた彼女だったが、もともとの性格がそうだったのか、両親や兄弟と海外生活を送っていたことにも起因してか、純粋な日本人以上に日本人的なトコロのある人だった。相手の気持ちを自然と考えてくれる、奥ゆかしさ。2年間という短い時間とはいえ、どっぷりとアメリカ人と生活してきたぼくにとって、彼女が随所に見せてくれるさりげない思いやりは、とても心地よかった。彼女を通じて、それまで深く考えたことのなかった「日本人」が、大好きになった。結局その彼女とは1年ほどで別れてしまったけれど、「海外に出る前に日本を知りたい。日本人をもっと知りたい」という気持ちが芽生えるきっかけを与えてくれた。

大学に入り、日常的には音楽(バンド)活動に明け暮れる一方で、夏と春の2カ月間の休みには、旅に出た。

日本を深く知るために、ぼくは「徒歩」という旅のスタイルをとった。中学からアメリカに留学する高校1年までの間に、自転車を旅の手段に、輪行を駆使しながら日本を部分的にまわった経験がある。主に、信州、四国、北海道。旅先で、同じように自転車で旅する人たちにたくさん出会った。つまり、冒険家を目指すぼくにとって、「自転車の旅」は、ある意味で予定調和だった。「冒険家とは誰もやらないスタイルで世界を駆け巡る人」という先入観のもとーーではどんな手段があるのか? そう考えた末の「徒歩」だった。小さな島国である日本をじっくりと知るための手段として、「徒歩」は理にかなっていると思った。何より、漠然とではあるけれど、「歩いて世界一周したい」という、冒険家としての最初の大きな夢があった。その第一歩として、日本を徒歩で旅するのは、当然の成り行きだった。

大学1年を終えた春休み。神奈川県川崎市の自宅を出発、西へ向かって歩き出した。期間は2カ月間。目的地はなかった。「青春18きっぷ」をバックパックに忍ばせ、春休みが終わる直前まで歩き続ける。そこがゴール。その後、18きっぷで帰ってくる、というものだった。

野宿とユースホステルの宿泊を繰り返しながら、およそ10日間。静岡県の御前崎に着いた。正直、疲れ切っていた。1日平均30kmに満たない進み具合。20万分の1の地図を持参していたのだが、地図上では10cm強の距離しか進まない。徒歩の旅は、体力的にも、精神的にも、予想以上にタフさを強いられた。とはいえ、バスや電車などの公共交通機関は、意地でも使いたくない。ーーそんな話を、ぼくは宿泊していた御前崎のユースホステルで働くヘルパーさんに伝えたところ、彼は言った。「だったら、ヒッチハイクしてみたら?」と。「その昔、ヨーロッパをヒッチハイクでまわったことがあるんだよね」と教えてくれた。なるほど、「ヒッチハイク」か!

その翌日から。徒歩とヒッチハイクを織り交ぜた旅が始まった。そして1カ月半後、ぼくは、日本本土の最南端、鹿児島県の佐多岬に着いた。「徒歩」にこだわる当初の目的とは異なってしまったけれど。毎日3台くらいのクルマに乗車したので、優に100人を超える人たちとの出会いを通じて。ぼくは、日本人の優しさに、とことん触れた。乗せてくれた人たちから、何度もゴハンをご馳走になった。たまたま道で拾った見ず知らずのぼくを、「野宿するなら今日泊まっていくか?」と、その流れで自分の家に泊めてくれて、美味しい郷土料理を振る舞ってくれた人も、一人や二人ではない。

徒歩とヒッチハイクによる西日本縦断の旅を終えたぼくは、次に、大学2年の夏休みを利用して、東日本縦断の旅に出た。出発地は、最北端の宗谷岬。そこからおよそ2カ月。徒歩とヒッチハイクのみで、自宅の川崎市まで帰ってきた。トータル4カ月。ぼくは、徒歩とヒッチハイクのみで、日本縦断を成し遂げた。

さらに大学2年を終えた春休み。それまでの旅を通じても、まだ足跡を残せていない県がいくつかあった。それらの県に足を踏み入れ、日本の全都道府県を制覇することを目的に、再び旅に出た。ただ、2カ月という限られた時間。効率よく、それでもじっくりと。公共交通機関は使わずに、人がやったことのないような手段で、日本をまわりたい。そこでぼくがとった手段は、50ccのスクーターだった。

制限速度30kmというスピードでの日本の旅は、自転車、徒歩、ヒッチハイクのどれよりも、ゆったりと、自由の効く、それでいて純粋に旅を満喫できる、至高のスタイルだった。まだ足跡を残せていない県に寄りながら、日本本土の最西端・長崎県の神崎鼻と、最東端の納沙布岬を結ぶように、約15,000kmを走破した。

これらの旅を通じて、ぼくは日本の全都道府県を制覇することができた。「制覇」といっても、行ったことのない、知らない街や村は、まだまだ日本に限りなく存在する。けれど、「海外に出る前に日本を知りたい。日本人をもっと知りたい」という気持ちの回答としては、自分的に納得できる経験を培えたと、結論づけた。

日本人として、日本のコトやモノを知ったうえで。自分の中での絶対的な経験に基づいた事実として。それでも「イタリアっていいよね」と言えるかどうかーー

ーー「言える」と判断したからこそ、大学3年を終えた後、いよいよ海外へ、と。前回のnoteに綴ったように、ぼくは大学を1年間休学して、北・中・南米大陸の旅に出ることができたのだ。


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