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長い人生の内の9ヶ月間

私のスポーツ遍歴

まあまあ沢山のスポーツをやってきた気がします。
学生までは、身体動かすの大好きマン。社会人になってからは、酒に溺れた低堕落な人生。(笑)

今ダイエットしていて、新しい趣味も欲しい。ならばこのハッシュタグにアヤカッテ、私のスポーツ歴史をここに刻みたいと思いまするぞ!!!(誰)

幼少期

プールに強制的に通わされる。水が怖かったため、逃げまくり。
母に当時大好きだったセーラームーンの人形買ってあげる!と物に釣られて頑張っていました。(笑)

《後日談》
大人になってから母に
「あの頃はいろんな習い事させてみてごめんね!(プールの他にも色々通っていた)母さんも母さんが初めてだったけぇ、色々やってみたかったんよ。」
と言われる。爆笑。そういう母の考え方大好きでした。むしろ沢山の経験をさせてくれて、ありがとうと言いたい。ありがとう!

小学生

足は早かったので運動会や陸上大会で毎回、リレーメンバーに選ばれる。

小学六年生の時、先生のススメで走り高跳びをやってみる。なんとびっくり才能に花開き、県大会で三度優勝を果たす。

が、しかし、全国では一切通用せず。過去の栄光天晴。

中学生

陸上部の誘いを断り、憧れの軟式テニス部へ入部。
先輩、鬼コワ。でも「強くなりたい」という思いが非常に強く、毎晩素振りして、部活のない日はコートへ行って自主練していました。

その甲斐あってか、二年生の時市大会で優勝。
お決まりのようですが、県大会では一切通用せず。(笑)

そしてここからが中々の展開です。(自分でハードル上げるの得意)

軟式テニスは基本ペアのスポーツで、前衛と後衛があります。私は前衛のエースでした。
一緒に優勝した後衛の子とペアを解散させられ、なぜか次の大会も、次の次の大会も一緒に優勝した後衛の子とペアを組ませてもらえず。
顧問に直談判するも、「わしの決定は絶対や。」

まぁよくあることなのかもしれません。
私が市大会で優勝してから、ペアを新しく組んだ子は顧問の大大大のお気に入りだったのです。

どんだけ努力してもどうしてもその子とでは勝てない。
勝ちたいので、勝つために何度も直談判するも、話も聞いてくれず、遂にもうこんなのチャンチャラおかしいわいと、職員室でブチギレ。退部という道を選びます。

あーもー帰宅部でええわ、いや自分で自主練して高校でのテニスに備えるか、、、なんて簡単に思っていました。

ところがどっこい、我が中学校にはなんでやねん(関西の学校ではない)なルールがあり、三年生の引退日までは何かしらの部活に所属せねばならないという決まりがあったのです。

引退日まであと約9ヶ月。どうしよ〜と思っているところに声がかかります。そうです、入学の時に誘われた陸上部 




ではなく 



眼中にもない、そして、友だちすらいらなかった 柔道部に。

柔道部の顧問は、体育の先生でまぁ仲良しでした。
「うちに来い。」
「分かりました。」と二つ返事で入部を決めました。
(今考えるとかなり自暴自棄だったかも)

そしてここからが大変。もう箇条書きにします。(投げやり感)

  • エブリデイ朝練(走り回って、筋トレ、基礎練)

  • 入部したからには大会に全部出てもらうと、入部する前は大会に出なくていいと言っていたのに、顧問に騙される(笑)

  • 時々OBの方が来られて、投げられまくる(しかも全国大会優勝の実力者)

  • 私が三年生になると、一年生に小学生からバリバリ柔道やってきましたって子が3人も入ってきて、投げられまくる

  • 全身筋肉痛、あざだらけ当たり前

壮絶な日々でした。でもなぜだか「辞めたい」と思ったことは一度もありませんでした。

柔道部に入ったことにより、知らなかった世界が沢山見えてきて、友達も増え、遠慮なく投げてくる可愛い(?)後輩たちにも恵まれ、すんごい楽しかったんです。

ただ大会では一回も勝てず。(もち白帯です)
迎えた引退試合。(あ、得意技は大外刈りです)
顧問からは「もう好きにやれ。絶対勝て。」と言われ送り出され、、、なんとドラマみたいに初めて勝利することができました。

あの興奮は今でも覚えています。
勝ったことも嬉しかったし、でもそれ以上に、ザ★強い男!の顧問が涙目だったのも、いつもからかってくる後輩たちが自分のことのように喜んでくれたことが何より胸に焼き付いています。

私の人生において私という人間を形成する上で、とても重要な9ヶ月間でした。
正直、今でも思い出すのは、何勝もして市大会優勝もしたテニスの試合よりも、引退試合で初めて一勝したあの試合です。

これまで何のスポーツしてたの?という話題になると、いつも必ず人生でやっている期間は一番短い柔道の話をします。聞き手も私の見た目がとても柔道をやっていたように見えないからか、興味津々で聞いてくれます。大人になっても、私を作ってきた大きな一部としていてくれる「柔道部としての9ヶ月」と、顧問・仲間たちに、心から感謝しています。

高校生

中学生の部が長すぎましたね。ここからはサクッと。
高校生になり、やはり未練タラタラのテニス部へ。
でももうペアのことでどうのこうのなるのは勘弁だったので、硬式テニス部へ。
硬式はダブルスもあるけど、シングルスもあるんでね!

母に頼んでテニススクールまで通わせてもらうも、いって県大会止まり。でもあの頃のように一生懸命努力したので後悔はないです。
そいや部長もやりました!人生初。

大学生

テニスはやり切った感がありました。
なので何か新しいことをしてみたいと、ラクロス部へ入部。
高校のラクロス部ってあんまりなかったので、皆イチからのスポーツということと、ユニホームが鬼可愛い!ということで入部しました。

サークルというよりも部活だったので、練習はきつかったですが、まじ青春でした。(アオハル)
先輩にも恵まれ、自主練にも沢山付き合ってもらいました。
鼻が折れたこともありました。(いい思い出)

先輩たちの試合に一人一年生をスタメンで入れるという話があり、さらに猛特訓。見事スタメンを勝ち取りました。

そして迎えた一年生だけの大会、新人戦。
私は私の大学イチ得点を稼ぎ、チームは何回戦か勝ち上がり、3対0で負けてたのに終盤私が4点入れて勝つという試合もありました。

試合結果が全て出揃い、実はここからが本番です。
各大学から何名か選抜され、その寄せ集めで全国大会へ行くことができるのです。(ユースって言ったかな?)

試合を見にきていた先輩たちも私が選ばれると言ってくれていたし、私も自分は選ばれると思っていました。
が、しかしまさかの選ばれず。
悔しくて久し振りに泣きました。

それから時が経って、小学生の時に足の靭帯が伸びた(記憶が曖昧)ことがあって、その部分が何をしてもひどい痛みで病院へ。

本当に軽い気持ちで行ったんですが、医師の診断は、
「走ったりとか軽い運動はいいけど、ラクロスぐらい激しい運動は足を考えるならやめてください。」
まさに青天の霹靂。悩んで悩んで母に相談もして、
一年生の終わり、ラクロス部を辞める決断をします。

毎日努力して、でもユースにも入れず、でも次の大会で勝ってやる!と燃えていた矢先、本当に悔しかったです。

これまで一緒に頑張ってきたから、マネージャーをしないかと先輩たちに声をかけてもらいましたが、そんな気持ちの余裕はなく(ラクロスをできる仲間たちを見ていられず)退部しました。

その当時、私の気持ちも分かってよって思っており、半ば強引に辞めました。
今思えば、先輩たちは手紙までくれて引き留めてくれました。その気持ちを蔑ろにしてしまったことをとても後悔しています。

まとめ

こう振り返ってみるとその場面場面で内容が濃く、もはやドラマみたいと自分で思いました。

これまでやってきたスポーツは、私を確実に成長させてくれたし、今の私を作ってくれたし、私の人生を語る上で切っても切り離せない経験です。

いやスポーツをやってきたことよりも、一緒にやってきてくれた人に恵まれたことが何よりの幸せです。

ありがとうございます。

特に、色々なことをする楽しさを教えてくれ、
私が何をしてもいつも応援してくれた母、
柔道部の顧問、そして仲間たち、
ラクロス部の先輩方に、大きな感謝を。

ここまで振り返って書いてみて、過去の自分が今の自分の多大なる応援団になってくれることを知りました。
まだ三十代。
新しいスポーツに挑戦してみたいです。

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