緑と自分~Dr.Yasai~

はじめまして。drumのYasaiです。

この文章は本来、Ba.のおだじまさんよりも前に投稿されて然るべきものだったんですが、失語症のように言葉がまともに書けず、文脈のないテクストを書いては消しということを繰り返していたために、遂に季節が変わってしまいました。もとい以下の粗末な文章も別にしっくりきてはいなくて、誰かに読まれることへの意識と配慮が足りていない気がするので、適当に読み飛ばして頂くのが望ましいと思われます。

ところで、drumは略すとDr.と表記するので、ドクターとも読めますね。

だから何だというわけでもないんですが、理系の学生は7割が大学院(修士課程)に進学すると言われている中、理系だった僕は、博士(ドクター)はおろか修士(マスター)過程にさえ進まなかったので、Dr.を名乗らなくてはならないのは複雑な感情です。所謂、ドクターコンプレックスです(?)。

縁の話をします。

僕にとっての緑との縁は、大学卒業後に突然就農したことです。

農業とは無縁の青春時代を過ごした僕は、大学を卒業して、親戚の家で農業を手伝わせてもらいました。大学院の試験に寝坊して、起きた時には試験が終わっていたために進路未定で卒業することになった僕は、やりたいという意志が生じるよりも早く、縁があったので、農業をやることになりました。ぼんやりしていますね。

このよく分からない行動の背景には『豊かさとか幸福とか、そういう類のものは、乱暴な言い方をすれば、無駄とされるものにこそあるのではないか』という命題がありました。必要に迫られてする訳ではないし、逆に自分ではないものによってやらされている訳でもないこと。例えば、草花のにおいをかいだり、知らない星座を見つけたりすること。当時の僕はそんな感じで、農業をやってみたのでした。

実際の生活がどんなものだったか、仔細を語ることはあえてしません。振り返ってみればそれは、これ以上なく楽しかった気もするし、生きる糧を得なければならないという意味で、命懸けだった気もします。いずれにせよ僕はこの経験から、僕が幸福を感じること、僕にとっての豊かさは、救済であり、そしてまた闘争でもあるような行為から生じていると認識するようになりました。

緑は、苗や野菜などの作物の色であると同時に、山や森といった自然の、多くの人が生涯に渡って覚えている風景の中心にある色ではないでしょうか。そんな、日常であると同時に非日常でもある色の中で生活を送ることは、誰でも体験できることではありません。日常は、自らを貫いているという点で闘争的であり、非日常は、ありふれていないという点で救済的なものです。当たり前であると同時に稀有でもあるような生活を送ることによって、社会的な闘争と個人的な救済を同時に体験すること。いずれにせよ、別にしなくてもよいことは、縁によって生じ、それ故に闘争的であると同時に救済的なのだと思います。

一般に「別にしなくてもいいこと」は余暇とか趣味とか呼称されますが、僕はそれが闘争的でも救済的でもあることを知っています。人は、趣味に多くの時間とお金をつぎ込み、それによって少なからず救われています。僕はドラムを全く同じ枠組みで捉えていて、ただ一点、ドラムを叩かなければならないという使命感だけが相違しています。ドラムを叩くことで対価を得たい訳でも、成功したい訳でもないけれども、単に楽しいからとか、救われたいからという理由でこれを続けている訳ではない。ここには数えきれないほどの挫折と、できないことに対する苛立ちがあって、それはまさしく闘争のようです(何と闘っているんでしょうね)。同時に、それでもなお叩くことによって僕は救われ続けています。日常と非日常、希求と拒絶、快楽と苦痛が入り混じっているこの状態を、僕は豊かさと考えます。

ライブで叩く時、僕は聴いている人たちを殺すつもり(物騒ですが、この言葉が1番しっくりきます)で叩いてしまいます。意図的にそうしているのではなく、無意識でそうなってしまうのです。それはドラムを叩くこと自体が僕自身との闘いであり、同時にそれによって僕自身が救われようとしていることの証左だと思っています。その反面、常々、僕の闘争-救済が誰かの救済になったらいいのになあ、と思っています。なぜなら僕が発しているその音というのは紛れもなく、バンドのみんなと、聴いてくれる人のためのものだからです。是非ライブに来て頂いて、できれば救われて行って下さい。

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