多様性の悪い側面
ここ最近よく耳にする言葉
多様性(diversity)
マレーシアに滞在している中でもこの言葉を聞く機会は多くある。
マレーシアには様々な国籍の学生や教授がいて、異なる文化が混在しているためアジアの中でも多様性がある国として有名である。
多様性、英語でダイバーシティと言うこの言葉を聞くと皆さんは、
これらの事を想像されるのではないだろうか。
多様性を言うと全てが許され良いように聞こえると思うが、果たして多様性は良いことばかりなのだろうか。
最近の出来事
私はマレーシアに滞在している日本人の方々で構成されている、
社会人サッカーのチームに所属している。
毎週末活動しており現地のサッカーチームと試合をしている。
試合の日に何人か集合時間に遅れてきた大学の同級生がいた。
周りから遅刻について指摘をされていたが、
などの事を言っていた。
日本ではなくマレーシアでは遅刻をしていいのか
現地の人と同じ感覚で遅刻をしていいのか
多様性があるなら何でも許されるのか
その出来事があった時に瞬時にそう感じた。
多様性の中の許すライン
上記に記載した出来事に遭遇した中で、
私は多様性という言葉について考えるようになった。
多様性のあるマレーシアに滞在している中で、異なる価値観や考え方、宗教観や国籍の方々と触れる機会が多くあったため私自身知見や価値観の幅が日本にいた頃より広がったように感じる。
しかし、異なる物事に触れる中で多様性の許容できる部分とできない部分が同時に形成されたように感じる。
上記で記載した時間の観点で言えば、どんな場所や異なる国籍の人であっても集合時間や決めた時間には遅れてはいけないと私は考える。
また、マレーシアで日本との違いを感じるのがトイレの使い方である。
マレーシアのトイレではホースが設置されている事が多くあるが、これはウォシュレット用に使われる。大学のトイレではウォシュレット用のホースとトイレットペーパーがきちんと設置されている場合が多くある。ウォシュレット用のホースを使うことは全然良いのだが、トイレットペーパーがあるのに関わらず便座を水浸しのまま出る人が多い。これも正直許容できない部分ではある。
多様性があるからと言って、何もかもが許されるわけではないと思う。
多様性がある中で、自分の考え方の軸となる部分を貫くことも大事なのではないだろうか。
最後に
最近耳にすることが多い多様性について
多様性に触れる機会が多い立場から見解を述べた。
私自身は多様性がある世界の恩恵を受けてきた人間であると、
自覚をしている。多様性の影響は良い事が多いだろう。
だが、その良さがある反面悪影響を及ぼす部分があり
見極める必要性を同時に感じた。
これからも多様性がある環境に身を置きながら、
多様性の良さを感じつつ自分の中でぶれない部分を貫いていきたい。
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