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一枚の自分史:「嫌やったらもうええで」

 どの家の前にも所狭しとプランターが並べられている。手入れの行き届いている家もあれば、行き届いていない家もある。朝、ご近所さんたちがおしゃべりに興じながらホースで水を撒いている。そんな中を駅に急ぐ。日々の風景だ。

 10歳になった頃、少しだけ日本舞踊を習ったことがあった。
 舗装されていない路地に入ると長屋が続いていた。どの家の前にも花や木が植えられた古い火鉢やドラム缶がびっしりと並んでいた。その通りを抜けるとお師匠さんの家があった。前庭には季節の木が植えられている。いつもきれいに手入れされていた。小さな門扉を開けるとふわっといいにおいが漂ってきた。
 ガラガラと玄関戸を開けると、
「いらっしゃい」
 優しい声が降ってきた。私はお師匠さんとは呼ばずにとっちゃんのおばちゃんと呼んでいた。とっちゃんとは2歳年上のとしこちゃんのことで、その1年前に病気で亡くなった。

 踊りを習いに行ったのは、母がどうしても行くようにと言うからだった。
「え~、踊りなんかしたない、嫌や、行けへん」
 友達と遊ぶ時間がなくなるのが嫌だった。
「とっちゃんのおばちゃんがおいでって言うてくれてはるんやから行きなさい」 
 それはほぼ命令だった。 
「何でやの、遊んでばっかりせんとお手伝いしなさいっていつも怒ってるやん、お稽古したらお手伝いでけへんで、ええのん」
「かまへんから、行きなさい」
 お母ちゃんは勝手やなと思った。不平たらたらで通うことになった。

 しぶしぶ通っていたが、「梅は咲いたか~、桜はまだかいな~」に始まって、そのころ流行っていた流行歌の「南国土佐を後にして」など数曲をお稽古したと思う。案外に面白かった。だけど、「ゆうこちゃんは筋がええから」と言われても続ける気はなかった。

 そのうち、とっちゃんのおばちゃんは、勉強も見てあげると言い出して、母からまた速攻で「行きなさい」と有無を言わせない命令が飛んできた。その時の方がもっと強引だった。とっちゃんのおばちゃんは元小学校の先生だったからだ。妹にもその命令は下ったが、毎回うまく逃げて、私だけが仕方なく通った。

 橙色の電灯がともる居間の座卓で宿題を広げる私、その横でとっちゃんのおばちゃんはにこにこと笑っていた。そして、問題が上手く解けると頭を撫でてくれた。嬉しくておばちゃんを見ると、大きな目から涙が零れるところだった。見てはいけないものを見たような気がして慌てて俯いた。
 時々、おばちゃんは寂しそうやなと思うことがあった。大人のそんなところを子どもは見たらあかんという気持ちが大きくなって、行くことがどんどんしんどくなっていった。

 私の成績はろくに勉強もしないのに5年生から急に上がった。たぶんおばちゃんのおかげだと思う。にもかかわらず、そのころの私は友達と遊ぶことの方を優先するようになった。そんな私に、母はぽそっと言った。
「とっちゃんのおばちゃんもそろそろ落ち着かはったやろ、嫌やったらもうええで」
 私はやっと解放されたけど、チクッと胸が痛くなった。

 それからも時々はとっちゃんのおばちゃんが着物を着て自転車にまたがって颯爽と走っている姿を見かけた。そんなおばちゃんはかっこいいなと思った。でも、やはりその横顔は寂しそうに見えた。

 今朝も、根っこが育ち過ぎてパツパツになっているプランターに植えられた金木犀が香っていた。山茶花の蕾がパラパラと落ちているのは手入れ不足かなと思いつつ駅へと向かった。


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