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生きること、書くこと。死して朽ちず。

 40代までは、ずっと誰かの子どもであったり、誰かの母であり、妻であり、会社では総務人事の人だった。なかなか自分だけの為には生きられなかった。
 2003年5月、50歳になって、こう記している。人生においてやりたかったことのやり残しがたくさんあることに気付いた。夢が叶わなかったことはすでに自明の理となり、それでも精一杯やったからいいのではないかと言い聞かせても、心の奥底では、何かしら寂しい。そのことを自分自身に納得させる年齢らしいけれど、何かをやって叶わなかったどころか、実現どころか夢さえ見ていないような気がする、と。
 今から、夢の実現に向けて再挑戦するに、残されている時間はあるのだろうか?切羽詰って、固まっている自分が居た。
 周囲は、何故何もやらないんだ。今の状態から跳び出せと言われても、生活に捉われるのが常でしょう、とは勇気のない言い訳です。それまで、数え上げるほど、山ほどできない訳をつくってきた。
 だが、そのころ、一体何がしたかったのだろう。今となってはかけらも思い出せない。夢を見ることがあったのだろうか。明らかに、諦めている自分しか認められない。

 60歳、そこから10年たって会社を無事に卒業できた。それまでの生活も手放したら自由になった。そう思っていた。やっと自分だけにかまけることができたら、多くの未完了に気がついた。まだ、私は自己実現できていない。今から何ができるのかという焦りはあったが、それでも自分のためにだけ生きることは楽しかった。
 会社を卒業してフリーになってますます仕事に追われることになった。それは望んでしたことだ。仕事を思いっきりしたかったのだ。充分に仕事ができたと思えた時にやっと次が見えてきた。

 それは「ツナグ」というテーマだった。手つかずの母からの最期の願い「古くからある大切なことを本にして繋いでほしい」を叶えること。でもなかなかできなかった。
 日々の仕事を手放せなかった。手放すことができなかったのだ。
 そこは電子出版という手法を手に入れることによって、手放しではなくて手渡すことができた。書いてそこに置いておく。これなら必要な人に必要な時に受け取ってもらえる。
 次に「父の戦争の物語」を書いて命のバトンを渡すことが緊急かつ重要だった。母の願いはそのあとで書ける。構想もできているけれど、順序が違っていたのだ。
 父のことを書くと決めたら不思議なことに、すべてがうまく回り始めた。
 父の物語を書くために自分史活用アドバイザーになった。そしてごく自然な流れで「100人と書く一枚の自分史」プロジェクトが走り出して多くの人の一枚の自分史の置き場としてMAGAZINEは10号まで出版できて、元局アナの朗読までついてきた。
 私は売れっ子の作家になりたかったわけではなく、敏腕な編集者になりたかったわけでもなかった。文芸部の部長になりたかったらしい。青春時代にやりたかったことを今やっている。そりゃ、今が楽しいはずである。

 だが、父の物語は遅々として進まない。その理由がはっきりとしてきたのは、ほぼ書き終わるころだった。
 ビアク島から奇跡の生還をした元兵士が60年たってもなお話せない。「もうそろそろしゃべってもええかと思うけど、死んでいった人らがいるのに自分がしゃべってええかと思う。今考え中」と考え続けた。

 そうだったのか、父は還ってきた。だから私たちはこうして生まれて繋がっている。還れなかった人がいるのに、還ってきたことを書いていいのか、誰かを傷つけないか、ずっと恐れていたのだ。
 父は、還ってきて繋がった命ではなくて、あの島で置き忘れられた命のバトンを繋いでほしかったのではないだろうか。それに気がついてからは、泣きながら書いた。
 還ってこられなかった命は、あれから一粒の種になって、大地に実りをもたらして、命は循環し続けている。書き上げてそう思えた。有難くって泣けた。今も泣いてしまう。

 あの立ち止まってしまった50代、それから20年たって、私は何かを為せているのかどうかわからない。
 が、書くことによって学びは続いている。そして、いよいよ老いていく。
老いての学びはこの裡にありそうです。その学びを書くこと。そのことで繋いでいきたいと思う。ゴールは、死の向こうに無限にあるのだろう。
 死して朽ちずとはそういうことなんだろう。やっと、見え始めたように思う。

「少にして学べば、壮にして為すあり、壮にして学べば、老いて衰えず、老にして学べば、死して朽ちず。」
 

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