父への手紙 10
新聞配達は天職
父は、外交官になりたかった夢を諦め、最終的には中小の海運会社に就職をした。
自分が目指していたものとは程遠かったが、強いて親和性があると言えば、海外ビジネス専門の海運会社ということ。
父との会話は多くはなかったが、覚えているのは、外交官ではキャリア組を目指していたこと、それは当時出身大学がどこかによってほぼ決まっていたという。
父が卒業した大学は私立。
父の話では、当時聞いていた話だと、ノンキャリアになるということで、その外交官にはなりたくなかったんだとか。
恐らく、大使や公使を夢見たんだと思う。
私は、アメリカの大学卒業後、某日本大使館の領事部で働いた経験がある。
その際に、大使公邸で行われるパーティに出席させてもらったことがあり、それはそれは、父が夢見るのも分かる。
父が当時勤め上げた会社自体をあまり知らずに渡米をし、その間に父も引退した。
今思うと、父は頻繁にアジアを中心とした国へ出張へ行っていた。
中国、香港、台湾、シンガポール、フィリピン、一度だけ北米もあった。
家庭を顧みることはなかったものの、結局、平から経営者にまでなり、それは社会人として尊敬できる。
ただ、尊敬できるのは、寧ろ、引退してからだ。
経営者を経験した人が、いきなり生活水準を下げることって、メンタル的に難しいと思う。
だけど、父は引退してからバイトを始めた。
それが新聞配達だ。
そもそも、何でも母にやらせていた父が、自分から行動するのを見たのは、これが初めて。
会社に遅れるや休む時も、母が会社に電話を入れていたくらい。
何かのアポを取るのも母任せだった父が、新聞配達だけは自分で動いたのだ。
本人曰く、運動の一環だったようで、学生時代に経験があるから、バイトと言えば、新聞配達しか思い浮かばなかったのかもしれない。
テクノロジーから程遠く人生を生きてきた父にとっては、昭和の時代と変わりないやり方で仕事ができる新聞配達は、しっくりきたのかもしれない。
新聞配達は、一般的には朝の4~6時の間に配達に来ている。
配達員は、3時頃に起きて、配達の新聞を取りに行っているわけで、朝が弱い人にとっては、過酷な2時間だと思う。
尊敬できるのは、大金を稼いでいた事は過去の事として忘れて、今を生きたことである。
昔に武勇伝があったのかどうかはさておき、父の兄弟は、父は一番勉強ができて、家族の中でも将来を嘱望されていた、というのを叔母経由でよく聞くものの、父からは一切聞いたことがない。
武勇伝を語る人ではなかったことも、尊敬できるところだ。
中央大学法学部だけは、会話に毎回出てきていたから、何も武勇伝を語らない父が、中央大学だけは口にしたというのは、相当、中央大学が自分の誇りだったんだと思う。
その中央大学を私も受けたが、ものの見事に滑り落ちた。
父は、難関大学しか大学と認めないところがあったが、中央大学法学部だけは、大学に認定していた。
どれだけ東大が難関校であろうが、中央の法学部には勝てない、としか言わなかった。
東大が勝ってましたけど…
父は、結局、新聞配達は辞めることになりましたが、理由は体力的なことだった。
バイクの運転はしなかったので、配達は全て自転車。
しかも、団地を回っていたので、5階まで階段を何度も上り下りをしたとのこと。
朝の早起きと、体力的にしんどくなったというのが理由だった。
早朝4~6時は、冬はまだ暗い。
ある日のこと、冬の配達でまだ暗い中、いつものように団地の階段を上っていると、突然、「おはようございます」と老婆の声が聞こえて、「ぎゃあああああ」と腰を抜かしそうになったと言う。
幻聴と言うよりは、霊障。
そう父は思って、心臓麻痺をかろうじて回避したところまで追い詰められたという。
そこが事故物件だったのかどうかを判断できる程、父の団地調査は深く行われていなかった。
PCもスマホもまだ見ぬ人に近い父にとっては、「事故物件サイト 大島てる」を知る由もなく、その団地が事故物件だったかを調べる方法があるなどという知識があるはずもなかった。
声の聞こえた場所を、腰を抜かしながら振り向くと、本当に老婆が立っていたという。
団地と言えども、電気がありそうなものだが、その日は、電気が切れて真っ暗で周囲が見えずらかったという。
老婆としては、いつもの時間に来る新聞が配達されるのを待っていただけなのだが、父によれば、老婆も身だしなみをしっかり整えてそこにいたわけではなく、髪もぼさぼさのまま暗闇に溶け込んで立っていたため、父の視界には入らなかったようだ。
とは言っても、父でなくても驚きそうなものだ。
また別の日は、強風が吹き荒れている中での配達があったようだ。
いつものように、団地の前に父なりのハーレーダビッドソンを止め、5階まで階段を上っていた。
5階に到着したところで、「ガッシャーーーーン!」という何かが倒れた音を耳にする。
父の中で、自分のハーレーが横転した、と直感的に思ったという。
団地5階の踊り場から我が息子の無事を確かめてみると、見事に直感が的中したことをその目で確認する。
それだけなら、降りた時に直せばいいか、と特に大きな問題ではなかったのだが、父は新聞配達士。
息子の荷台からは、新聞にも似たガソリンが風に吹かれて漏れ出していたのだ。
新聞と言えば、通常、朝刊には広告が挟まれており、それを新聞と一緒に配ることで、広告費を頂いているわけで、その広告が風に舞って飛んでいく光景を目の当たりにした。
父は、「俺の給料の原資が…」という思いで、急いで階段を駆け下りる。
その間にも、父の原資は、みるみるうちに宙へ舞い、さながら、大晦日のタイムズスクエアに降り注ぐ紙吹雪の様だったと、父は自伝に書き残している。
父が急いでタイムズスクエアに戻ると、原資が方々に散らばっていた。
カジノのポーカーで大損した客のチップをまとめて救い上げるように、原資を拾い新聞に戻し入れた。
新聞配達ボーイの父も「割に合わない」と初めて気づいたのはその時だった。
新聞配達を辞めたのが、未だ未解決の老婆事件とタイムズスクエア事件が主な要因になったかは別として、程なくして父は、配達を辞めた。
配達人口が過疎化する昨今、自ら志願兵として特攻部隊に入隊した父は、去り際に仲間より惜しまれたという。
新卒から定年まで働き上げた自分の会社では、惜しまれなかったのに、こんな身近に自分を惜しんでくれる人がいたことに、父は心の中で涙したことだろう。
父への手紙
親父の新聞配達のバイトは、最初、幾分反対があったもの、自分の正しいと思う道を是が非でも貫いたリーダーシップというものを教えてくれたドラマでした。
私は、個人的には、父が新聞配達という多くの人がやりたがらない仕事を、健康のためという理由があったにせよ、経営者という過去の栄光を完全に捨て去り、現場の人間の目線まで自分を戻して、現場のニーズに応えたことは、称賛に価すると思っている。
これは、山本五十六が言った、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」の「やってみせ」を体現したものであることは、皆まで言わずともよくわかります。
親父は、ここまで「やってみせ」たけど、家族に「言って聞かせ」る程、器用さがなかったために「させてみせ」ることが出来ず、「ほめてやる」機会もなかったから、家族は「動かじ」だったのかもしれません。
今となれば、親父の真意は、歴史を語る今、家族には全て伝わっていることを忘れないで下さい。
あれだけふさふさだった髪が抜け落ちたのも、あの時の老婆との未知との遭遇による心的外傷後ストレスによるものだと、漸く気が付きました。
結局、風で飛ばされた広告は、その後、どうなったんでしょうか?
きっと、忘れた頃に瓶に詰められたまま、稲毛の浜に流れ着くのかもしれませんね。
親父の新聞配達は、「過去の栄光は捨て、今を受け入れろ」という教えだったことは、私がいつの日か講演会を依頼されたら、後世に語り継いでいこうと思います。
今のところ、講演会の依頼が来る兆しが1ミリも見られないのは気のせいでしょうか。
親父の新聞配達の意味は、経営者になっていなかったら伝わりにくいものだったと思います。
経営者になっても尚、その栄光に拘らない行動が、今回、ノーベル老婆賞にノミネートされたのです。
最近では、若者が言うことを聞かないと嘆く上司ばかりですが、親父のように老婆に向き合える程の上司もいなくなりました。
そんな貴重な教えをどうもありがとう。
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