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行動経済学の没落とエルゴード性経済学の勃興

 少し古いネタではあるが、以下はツイッターで長年続いてきた行動経済学に関連する議論にて、セイラー氏が最近ツイートしたものである。

 これには正直驚かされたと言う他はない。行動経済学は、ツイッター上で数年間に渡る応報とそれに関連して紹介された動画、論文、記事や、カーネマンやシラーらの著作を読んだ程度で全く詳しくはないのだが、それでもカーネマンらの主張とセイラーのこの苦し紛れの発言が食い違っているのは分かる。

"You cannot train people to be rational."

"A unique event is a repeated event that happens only once"

 私は胴元である心理学をそもそも学問として信頼しておらず、2018年にセイラーがエルゴード性の概念を(最大限好意的に捉えるならば、全く当該知識がなかったが、口の悪い某論敵からの批判に対する苛立ちからつい突発的に) "hogwash"と表現したのを見て強い懐疑心を抱いて以来、「行動経済学は何かしらの学術詐欺の可能性がある」と考えていたのだが、昨今の各方面からの批判の激しさやこうした大家の発言、当該分野の研究者たちの反論の稚拙さを見ていると、やはりというべきか、少なくとも健全な分野とは言えないのが実態なのだと窺える。

 その内容がどれだけ妥当なものと見なすことができるからといって、批判ばかりを見て物事の是非を判断するのは勿論望ましくないのだが、元々評判が悪いのに加えて研究者たちの数理能力の欠如や主張の矛盾が目立つ場合、そもそも相手にするのが馬鹿らしいというのが本音としてあるのは否定できない。
 言うなればフランス現代思想あたりを元ネタに政治経済や自然科学、科学技術について何かを語ろうとする人文系学者のようなもので、最低限の認識のすり合わせや対話すらも成り立たない相手だと、何ら学術的成果に繋がる議論が生まれることはないのは多くの人が認めるところである。
 それでも、争点になっているある2つ(あるいは幾つか)の分野を比較した場合、事前にどの分野が戯言を並べ立てているかは、"ある程度であれば"良識ある人間には判別可能ではないだろうか。

 私の専門は数理ファイナンスで、隣接分野とされるものに金融経済学や行動ファイナンスなるものがあるのだが、学際交流と称して接触させられる機会が何度かあってその度に互いに会話が全く通じなくて苦労したという、苦い経験に基づく偏見があるのも公平のために述べておくべきだろう(そもそも応用数学と社会科学なので互いに言語が通じないのは当たり前なのだが、分野外や経済畑の人の中にはあまりこの致命的な相違を理解してくださらない方々がいる)。
 私の指導教員も、最初の専門的な技術書を書いた時に出版社が用意した査読者が金融経済学者だったために内容を理解してもらうのに苦労したようで、結局は事態を理解した編集者によって査読者が数学者や数理ファイナンスの人間に代わってようやく出版に漕ぎ着けたくらいだ。
( 公平のために、学術論文は基本的に分野ごとに好まれる形式や慣習があるため、査読者が見慣れたものに近いほどアクセプトされやすくなる。そのため、あまり信用できない分野では、政治的に正しかったり、権威ある先生のお弟子さんの論文は無批判にアクセプトされるなどして益々質が悪くなったり、分野外からの評判も芳しくなくなる。
 逆に言えば、査読者が見慣れない形式・構造であるほど良い論文でも弾かれやすい。
 ソーカルやボゴシアン博士がデタラメな論文を通すことができたのも、Natureですら良論文を落として明らかな不正研究を受け入れてしまう事件が度々起きるのも、これが原因として挙げれるのではないかと私は考えている。
 解決方法としては、予め全体に公開して査読可能な人間の数を増やす-Researchers.Oneのように-やマッチングミスを避けるシステムを作る、などになるのだろうか?

 どちらにせよ査読につきまとう難しい問題があることを理解して欲しい)

 元々数理ファイナンスの世界では、行動経済学の評判がすこぶる悪かったことが、方々から窺い知ることができる。
 例えば、エマニュエル・ダーマン氏によって書かれた以下の記事はまだ私が学部生にすらなる前のものであるが、この時には既にその学術的正当性や厳密さ、再現性の危うさを疑問視されていたことが分かる。

 最近では、ピーターズ博士によって書かれた「The ergodicity problem in economics」という論文

から始まる一連の論争が数年に渡り様々な分野の研究者を巻き込んで続けられてきたが、行動経済学者は未だにまともな反論はできておらず、結果的にはその評判を地に落として終息すると大方推測されている。

 とはいえ、学術的議論の是非の判断を適切に下す能力に欠いている学部学生や一般人の間では、もう少しだけ行動経済学の人気が続くのは間違いないだろう。
 残念ながら社会科学は、正しさよりもどれだけ受け入れやすいか、どれだけ自分の願望に近いか、つまりはどれだけ伝染性が高いかによって広まる傾向があるようで、間違いを示すだけではそうした強い信念や願望と結びついたアイデアを棄却させるのは非常に難しい。
 あのマルクス主義でさえ、未だに一定の支持者が存在しているのを考えてみて欲しい。一方で、アカデミア内部であっても、実際に有効な批判が受け入れられるのには長い年月や世代交代か要求され、その間は間違ったアイデア・思想・学派が強い影響力を振るうことになる。

 だが、致命的に間違っているものは持続的ではなく、いずれはその規模が縮小してゲームプールから除外されるため、将来的には概ね楽観視することができる。
 行動経済学から派生したもう少しマシな分野が生まれている可能性は充分高いと思うが、それでも現状の行動経済学やナッジ理論がどうのといった主張や論文を目にする機会はなくなるだろう。
 個人的には、サンスティーンのような明らかに数学バックグラウンドがない人が意思決定やリスクについて的外れな主張を繰り返し、予防原則を超えて云々みたいな話をし出さないようになるだけでも、他分野の人との会話で受けるストレスがだいぶ軽減されるので嬉しいのだが。

 また、件のピーターズ博士の研究論文から新たな学際的学術領域としてErgodicity Economics(邦訳するなら「エルゴード性経済学」だろうか)が生まれており、今後の発展が強く見込まれている。

 youtubeでエルゴード性経済学についての解説動画もやっているので、自分は論文が読めない、あるいは読んだけどよく分からなかったという方はここから入ると良いかもしれない。

 現在の研究内容に知りたい場合は、以下のエルゴード性経済学の公式サイトから追うことができる。

 まだ若い分野であり、粗いところも多いとは思うが、将来的な飛躍を強く予感させるのは間違いない。
 特に私と分野が近い研究者の間での注目度が非常に高いため、余計にそう感じさせる。

 勿論エルゴード性経済学に対する批判が全くないわけではないが、私が見てきた範囲では、今のところ有効な批判と認められるものは見当たらない。
 むしろ、初期の批判の過熱具合を考えると、かなりトーンダウンしてしまっている感は否めない(「社会科学に無知な数学者による壮大な似非科学」という批判から、「行動経済学の全てが否定されたわけではない」という弁明になるまで、僅か2年ほどしか経っていない)。この点は、経済学者たちにもう少し頑張ってもらいたいところだ。

 エルゴード性経済学という新しい分野を受け入れるかどうかの判断を置いても、学術史の新たな1ページが綴られてゆく瞬間の目撃者となるのは、悪くない選択と言えるのではないだろうか?

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