【翻訳】還元不可能性:弱いものと強いもの

 還元不可能性は、間違いなく複雑系科学の主要なテーマの一つである。
 この文脈で使われる多くの用語と同様に、この言葉も否定的にとらえられている。つまり、文字通り還元できないものは還元できない、ということだ。
(一般的には「創発」や「創発的性質」という言葉を耳にするが、私は「還元不可能性」の方がより明確に私たちの注意を引くと思っている。
「創発」が動詞と名詞の両方で使われているという事実は、問題を解決するものではない。)
(複雑さの研究に密接に関連する他のいくつかの用語は、否定的な役割を当てられやすい。非線形性、非エルゴード性、非決定論的 、非定常性、不可逆性、非可換性、非絶縁性、非対称性など。一般的に、何かになる方法よりも、何かにならない方法の方が多く存在する。)

 では、「何かが還元される」とはどういうことなのだろうか?
 簡単に言えば、すべてのパーツを個別に研究し、それらがどのように関係しているのか、あるいは相互作用しているのかを見ずに、全体のシステムの動作を理解するために必要なことを原則として全てを知ることができることである。
 各パーツの動作は合計される。何の構造もなく、ただ「足し算」されているだけなのだ。
(このような"総和"は、構造を持たない集合体である。秩序や特定の関係を持たずに、袋に入れたものを一緒に放り込むようなものでしかない)
 そのため、分解しても情報が失われることはない。

 つまり、あるものが還元不能であるということは、それを分解して各部分を別々に研究しようとすれば、何かを失ってしまうということである。必ずしも全てではないだろうが、何かは失う。
 各パーツは単に合計すれば良いだけではない。そこには構造があり、関係があり、組織がある。
 還元不可能性とは、一般的に「現実世界」で遭遇するシステムである。
 それらは高度に組織化され、構造化されている。
 還元不可能性はどこにでも存在する。一度バラバラにすると、破壊されてしまう。

 還元主義の科学は、還元可能性が一般的なケースであり、還元不可能性は局所にある特別なケースだと仮定してきた。(彼らはしばしば、さらなる修飾する。「たぶん、おそらくは、ただの錯覚や随伴現象なのだろう」と)
 この仮定は「自明」という名目で語られてきた。しかし、これは自明のことではいので、実際には間違っている。

 複雑さを真摯に受け止めるということは、還元不可能性を真摯に受け止め、世界の一般的な特徴として受け止め、特殊な状況でのみ還元可能性が認められることを認識することに他ならない。
 少し残念なことに、還元不可能性は決して特別なものではない。
 この概念にエキゾチックさを感じるのは、間違った見方に慣れてしまっているからだ。

 還元不可能性を特別なものと見なす傾向があるのは、還元不可能性にはさまざまな方法があるため、還元不可能性のあるものはかなり特殊な形をしており、その構造や組織は必ずしも似ているとは言えないからではないだろうか。
 一方で、還元可能であるためには一つの方法しかなく、それは内部構造を持たないということである。
 そこで、私は2つの異なる種類の還元不可能性を、弱い還元不可能性と強い還元不可能性と呼んで区別したいと思う。

弱い還元不可能性

弱い還元不可能性では、システムが還元されないというよりも、システム内のある動作が還元されない。
 例えば、二人の人間の会話を考えてみよう。二人が一緒にいて前後で会話をしているときには、二人組の特性である何らかの行動・振る舞いがある。
 もし二人が互いに離れて行き、それぞれが半分ずつの会話を続けていたら、彼らが狂っていると言ってもいいだろう(指摘する人がいるかもしれないが、独り言は会話とは全く異なる動作。残念でした。もしこれを会話と思うなら、あなたは単に気が触れているのかも)。

 2つの半分だけの会話から1つの全体の会話は生まれない。半分だけの会話というものは存在しない(もちろん、「話しかけられる」という現象はあるが、これは絶対に会話の半分にも達していない。これは反会話だろう)。
 会話は、二人の人間がお互いに直接対話することで全体として現れる。それは還元不可能な行動である。
(還元不可能な行動を発見するためのヒューリスティックな方法がある。
 それは、あるパーツが接触しているときとそうでないときとで、行動が異なるかどうかということだ。
 よく、「全体」の行動には還元不可能/創発的な性質があると言うが、「パーツ/部分」の行動も、孤立しているか、他のエージェントと接触しているかによって変化するはずなのである。

 ここで注意して欲しいのは、2人が会話から離れてしまうと、行動(「会話」)は破壊されるが、人はそのままであるということだ。
 相互作用がなくなったことで、私たちが「会話」と呼んでいる動作はなくなったが、システムを構成していたパーツがなくなるわけではない。彼らはこの還元不可能な会話を超えて存続する。
 そして、その場を離れても、後から再会することで、さらに会話が弾むことだろう。故に2人の会話システムは弱い還元不可能性といえる。

強い還元不可能性

 強い還元不可能性を観測する場合、還元不可能性を持つのは単なる動作や特性ではなく、システムそのものである。
 このようなシステムは、会話する二人とは違って、バラバラになったり、元に戻ったりすることは決してない。
 所謂、「ハンプティ・ダンプティ・システム」と呼ばれるものだ。
 「ハンプティはバラバラになってしまたので、元の状態に戻すことはできませんでした。」

 強い還元不可能性のシステムは元に戻ることはない。なぜならば、パーツが分離したときに、会話を終えて立ち去る人々のように、何か違うことをするのではなく、急速に減衰して存在しなくなるからである。

 有機体はそのような強い還元不可能なシステムである。
 あなたの体の各部分は、単に互いに依存していて、それらが分離された場合には異なる動作をするというだけでなはない-分離された場合には存在しないのである。これが生命の証だろう。

 強い還元不可能性モデルを構築することには困難が伴う。
 標準的なモデリング・パラダイムでは、実体が存在しなくなることをうまく処理できない。
 物理モデルは、モデルの宇宙に存在するものを直接暗示する状態空間を呼び出す。つまり、存在するものとは、状態空間に状態が表されているものと言える。
 これらのものは、状態を変えたり、配置を変えたり、シャッフルしたりすることはできるが、実際には何もなくなりはしない。

 もちろん、そのようなモデルを作ろうとする試みが成されてはいる。
 例えば、オートポイエティック組織の計算モデルを作った人もいるが、このようなモデルでも「存在」という概念は、最終的にはモデルの観察者の解釈であり、モデル自体で実際に起こっていることは、モデル作成者が主張する、あらかじめインデックスされた実体の状態変化だけなのだ。

どうあるべきか

 強い還元不可能性は考えてみるとより魅力的であるが、必ずしもそれが良いことだという印象を与えたくはない。
 強い還元不可能性システムの故障状態は、システム全体の崩壊を意味する。会話から(比較的)無傷で立ち去ることができるのは素晴らしいことなのだ。

 私たちはどのような地球社会を作ろうとしているのか考えてみよう。
 弱い還元不可能性を持った地球は、私たちが共に交流し、取引し、より実りある繁栄を遂げることができる社会だが、必要であれば離れていくこともできる。
 少しの間接続を切っても無傷でいられる。そして、後で再接続することも可能だ。

 もちろん、私たちが目にしているグローバルな秩序は、弱い還元不可能性ではなく、強い還元不可能性によるものである。
 私たちの行動だけでなく、私たちの存在が、システムの他の全てのパーツの完全性に依存するようになってきている。
 私たちは切り離すことができず、立ち去ることもできない。

 昔はそれができていた。全ての人間のためにも、その方法を覚えておくべきだと私は思う。

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