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不安と丁寧、自由になるための思案

仕事に対する不安が高まるたびに、自由がほしい!と心が叫び出す。
しかし、自由とはなにか。

仕事が忙しくなると決まって焦り、先延ばし癖ならぬ「前倒し癖」が出現。その日やらなくても差し支えない仕事にまで手を出してしまう。当然、時間と苛立ちに追われ、その繰り返しがストレスとなり、自分で自分の首を絞めている有様。
あまりの息苦しさに「もう仕事やめたい…やめて自然の中で丁寧に自由に生きたいよぉ…」などとのたうち回るのだが、結局環境を変えたところで自分が変わらない限り同じことを繰り返すに決まっている。

2021年ベストセラー『スマホ脳』によると、人の脳にはどうやら「起きていること=ストレス」と「予期すること=不安」という二つの警報装置が備わっているらしい。
これを前提に日々を振り返ってみると、なるほど「今やってること」に対してそれほど疲れはない。一方で「明日やること」に対しての焦りばかりが心を支配している。
これはストレスではなく不安だ。私に足りないのは「ストレス耐性」ではなく「不安耐性」であったようだ。

しかし、不安は耐えるものではない。抱えている人はわかると思うが、居ても立ってもいられないし、やらずにはおられない。我満できりゃ苦労しねえよ、という話である。
じゃあそもそも、不安にならないように毎日を過ごせばいいんじゃね?というのが私の出した答え。本末転倒な気もするが。

結局、不安は後悔の積み重ねだ。少なくとも私の場合。
過去の苦い経験が、未来の経験を辛く予想させる。
つまりそれは、自信のなさ。「今日もできなかった」という後悔だ。
一つ一つは大それたことではない。例えば、
廊下のゴミを拾わなかったこと、
書類の手渡し方が雑だったこと、
挨拶がハキハキできなかったこと、
それらが積み重なって「面倒だからいいや」という経験が磨かれた結果、
「私は面倒くさがりで、細かいところで手を抜く、物事をきちんとできない人間」という劣等感に繋がっていたのだ(というのが、今のところの結論)。
それなりにはできる、けれどもそれは、本来の私が思っている完璧ではない。そこに甘んじでいる限り、私はいつまでも「明日はちゃんとできるだろうか」という不安に囚われ続ける。

自由に丁寧に暮らしたいと思った。
それならば今から始めればいいだけだ。仕事をしながらでもできる。
目に付いたゴミは迷わず捨てればよいし、大きな声で挨拶をすれば良い。
頑張ることはない。面倒くs…と思った瞬間に、ただやればいい。
些細なことだけれど、些細を積み重ねた先で、私は私に胸を張ることができる。
自分に胸を張る、きっとそれが私の求める自由であり、不安からの解放なのだ。



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