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「魏志倭人伝の謎を解く」渡邉義浩著 書評

<概要>

三国志の専門家の立場から、歴史学の手法で魏志倭人伝の理念(フィクション)と事実(史実)を分類し、その事実に基づいて「邪馬台国は、九州説よりも大和説に、より説得力がある」と推論した著作。

<コメント>

近代以前の歴史書は、すべからく史実の記録を目的とする「事実の歴史書」ではなく、その時代の対象(主に権力者)の正当性を裏付ける「価値の歴史書」なので、人文科学としての事実の歴史=歴史学の記録としては扱えません。したがって「歴史家は、価値の歴史書の中からどうやって事実を拾い出していくのか」が腕の見せ所になりますが、著者のその腕っ節は見事と言わざるを得ません。

著者によれば

歴史学は、史料の信憑性と正確性を文献解釈により批判する内的史料批判と、史料の出所や伝来過程を調べる文献考証である外的史料批判により、歴史的事実を解明(第1章:本書の方法論)。

とのように「内的資料批判」と「外的資料批判」に加え、考古学的成果を加味することで史実に迫ります。その成果は以下の通り。

■魏志とは?

魏志とは、陳寿が著した「三国志」の三つの国(曹魏・孫呉・蜀漢)のうち、曹魏のことを記録した箇所のこと。三国志も「価値の歴史」なので、それでは何を「善きこと」とみなして書かれているかというと、陳寿が生きた三国志以後の時代の権力=「西晋」の正当性です。西晋は、三国志に登場する曹魏の武将:司馬懿仲達の孫(司馬炎)が建国した国なので「曹魏を正当とみなして書くことで西晋の正当性を裏づけよう」というのが歴史書「三国志」の目的。

なので主役は、我々が一般に親しんでいる歴史小説「三国志演義」の主役「劉備の蜀漢」ではなく「曹操の曹魏」。そして曹魏の大将軍「司馬懿仲達」(ただし陳寿は蜀の人なので若干蜀を贔屓目に書いている)。

なお、ふつう中国の正史は漢書、唐書というように「○書」なんですが、「魏書」は北魏(南北朝時代)の正史になるので、曹魏の場合は「魏志」と呼称。

■邪馬台国を重視した曹魏の事情

上記の通り、三国志では、司馬懿が本当の主役なので司馬懿の「二つの功績」を宣揚する事で西晋の正当性を強調。第一の功績は司馬懿は曹魏の将軍として諸葛亮との「五丈原の戦い」の勝利。この後、明帝の意を受けて遼東(遼寧省の辺り)の公孫氏の討伐に出陣し公孫氏殲滅。これが第二の功績。

司馬懿が公孫氏を滅ぼしたことにより、遼東の先にある日本列島から使者が来れるようになった。つまり

陳寿が『三国志』を著した西晉では、卑弥呼の朝貢は、曹爽ではなく、司馬懿の功績に基づき行われたと認識されていたのである(第2章:西晋の認識)。

したがって「邪馬台国をいかにポジティブに記録するか」ということが司馬氏を持ち上げることにつながるため、歴史家の立場からみれば、魏志倭人伝の卑弥呼&邪馬台国は「だいぶ盛ってるな」と勘繰る必要があるということ。

見方を変えれば、邪馬台国の存在が後世に知れ渡ったのは、諸葛亮(孔明)が五丈原で死んでくれたおかげ、ということになります。

■中華思想と四夷伝

中華思想と邪馬台国&卑弥呼との関係も面白い。中華思想によれば列島は東夷(東の野蛮人)にあたります。

儒教の対外思想の中核をなす中華思想は、中華を支配する天子が徳を修めることにより、「東夷・西戎・北狄・南蕃」という四方の夷狄が、中華の徳を慕って朝貢する、という自国の優越性を説く思想である。類似の思想は、古代のギリシア・エジプト・インドなどにも見られるが、それらと中華思想との違いは、「徳」の介在にある。中華思想は、天子の徳が四方に波及すればするほど、遠くの夷狄が中国に帰服すると説くのである(第2章:中華思想と4夷伝)。

として中華思想に基づく遠方からの卑弥呼朝貢の重要性(遠方から夷狄が朝貢するのは「天子の徳」が遠方まで行き渡っている証拠)を押さえつつ

こうした儒教の中華思想を表現するため、正史は北狄・南蛮・西戎・東夷の四夷伝を備える必要性を持つ。それが理念に基づき整備されたのは、劉宋の范曄が著した『後漢書』である(同上)。

と中国史書においては北狄・南蛮・西戎・東夷が揃っていることが王朝の徳治政治の根拠にもなっているのですが、三国志の場合は南蛮伝・西戎伝がありません。これはなぜかというと曹魏が主人公なので、南は蜀漢と孫呉となっているので南蛮伝は書けず、西戎は蜀漢に朝貢していたので書きたくても書けなかったのです(蜀漢の正当性を認めることになるから)。

したがって、なおさら東夷としての卑弥呼&邪馬台国の重要性は倍増され「盛る」という結果ににつながります。

■邪馬台国は、なぜ大和説の方が優位なのか?

以上などの「盛る」部分を除去して、事実と思われる点を推測した結果、大和説の方が確実性が高いと結論づけます。

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(箸墓古墳:2021年5月)

例えば、魏志倭人伝に記録されている具体的距離は西方の大月氏と同じ距離に意図的にしたためフィクション(著者は理念と表現)ですが、道程に「水行」とあって瀬戸内海や日本海を示唆すること、邪馬台国が九州にあるならば伊都国(福岡県糸島市辺り)には地方官職(刺史)が配属されるはずがないこと、邪馬台国と同時代の纏向遺跡(奈良県桜井市)で列島広範囲からの出土品が多数発掘されたこと、など陳寿の意図、当時の中国の政治体制・思想背景、考古学の成果に鑑みながら、その根拠を提示して九州よりもヤマトの方がより可能性が高い、という仮説。

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(纏向遺跡:2021年5月)

本書を読む限り、かなりの納得性があるので邪馬台国は大和にあったんだろうな、と思います。なお、卑弥呼は宗教上の諸国の代表者のような存在だったというわけだから、列島内は統一権力というよりも緩やかな連合体だったようです。

*写真:奈良県 箸墓古墳(もしかしたら卑弥呼の墓かも)

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