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岐阜から上洛した信長

秀吉と竹中半兵衛「七顧の礼」
 信長の美濃攻めで活躍した秀吉が、美濃の軍師竹中半兵衛をリクルートしたことについて、司馬さんはこのように述べている。
「あの男をわが家来にしたい」といってそのころすでに織田家の武将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのはこのあとである。藤吉郎は(中略)六度とも半兵衛にことわられた。信長の直臣になるということではない。藤吉郎の参謀になる、という契約である。
 繰り返しになるが秀吉の発想は、自分は「(株)織田信長」の正社員というより外部コンサルであり、クライアントである信長を儲けさせるためにヘッドハンティングした相手が竹中半兵衛だったというのだ。しかも三顧の礼どころか六回も断られたというのだから「七顧の礼」というべきであろうか。

岐阜駅前の信長と「岐阜」の命名
 岐阜駅についた。駅前広場で8mの台座の上にそびえる3mの黄金の銅像が目に突き刺さる。例えば小田原駅裏の北条早雲、静岡駅前の徳川家康と今川義元、甲府駅前の武田信玄、大分駅前の大友宗麟など、武将を輩出した土地では駅前に銅像を建てるのが常である。しかし黄金の銅像というのはここぐらいではないか。しかもマントを翻すハイカラぶりである。この町も名古屋のように派手好きか、と錯覚したがそうでもないらしい。
 それにしても戦国の世にこの町を見下ろす金華山を拠点に美濃を統一した斎藤道三ではなく、尾張からやってきて岐阜で「途中下車」しただけで安土に向かった信長であるが、その程度の人物のこんな派手な銅像を立てるというのも異例かもしれない。
 ロープウェイで金華山にのぼる。山頂の模擬天守からは真南に濃尾平野が広がり、北東の産地からは長良川がこちらを目指して流れてくる。「岐阜」というのは彼が漢文学に精通した僧侶の発案の中から選んだものという。中国最古の王朝殷を滅ぼした周の都は現在の西安付近の岐山というが、それにちなんだと言われる。ちなみに「阜」というのは丘を意味する。信長はこの高い丘の上の城から眼前の山河を眺めては殷王朝を倒した周の文王に、後に室町幕府という旧体制を倒す自分を重ね合わせたのだろうか。
 ちなみに文王は文字通り「文」を重んじたのに対し、信長は岐阜城時代から「天下布武」、すなわち「武」力をもって天下を平定するという意味の印を使用したという。
 
足利義昭と京都
 岐阜城を拠点に「天下布武」を実行せんとした信長は、京都を追い出されて各地を流浪中の足利義昭を担ぎ、上洛を果たそうとしていた。ちなみにその時に両者を結び付けた功労者が明智光秀である。司馬さんの義昭に対する見方は、
「義昭は、中世的な最大の権威である『室町幕府の復興』ということのみに情熱をかけ、そのことにしか関心をもたない。この三十二歳の貴人はすでに生きながらの過去の亡霊であったが、信長は未来のみを考えている。」
と、手厳しい。それに対し、信長に対しては、 
「この人物を動かしているものは、単なる権力慾や領土慾ではなく、中世的な混沌を打通してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な慾望であった。(中略)かれは、政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までばくぜんと意識していたし、そのある部分は着々と実現した。」
と、極めて肯定的である。
 信長のおかげで都に戻り、将軍の座に返り咲くことのできた義昭だが、自ら信長の傀儡にすぎないのではないかと気づく。そんな時京都守護を任せられていた秀吉の訪問を受けた義昭だが、身分の違いから会おうとしない。しかしそれで引き下がる秀吉ではない。 
「この藤吉郎は信長の代官として京都守護をつとめる身。(後略)」すぐ鄭重に藤吉郎を通し、義昭はあたふたと上段の間に現れて座った。(中略)「信長は、容易ならぬ家臣をもっている」とつぶやいた。自然、光秀との対比が、何度も義昭の脳裏に去来したことであろう。
 おそらく秀吉も義昭を単なる過去の亡霊ではあるがお飾りとしておけばまだ利用価値がある人物程度にしか思っていなかったのだろう。でなければ将軍に対してこのような高飛車な態度はとれないだろう。信長や秀吉のようなタイプにとっては「腐ったら鯛ではない」のだが、世の中には「腐った鯛」を大事にありがたがる連中がまだ多数だったのだ。

京都御所は保護した信長
 京都御所は美しい。この御所も戦国時代には荒れ果てていたはずだが、ここを保全したのも信長だった。とはいえ、信長も信長で京都における天皇と将軍の関係がどのようなものか分かりかねていた。そこで都の庶民の気持ちを調べ上げた結果、将軍より天皇のほうが利用のし甲斐があるという結論にたどり着いた。司馬さん曰く、
「天子は戦さが強いか」と信長が聞くと、「天子は兵を用いられぬ。平素はただ神に仕えておられる」。(神主の大親玉か)という程度に信長は理解していた。ところが、こうして、都へのぼってくるたびに思うことは、都の者は、「将軍よりも天子のほうがえらい」ということを、ごく常識のようにしてもっていることである。これには信長も、思想を一変せざるを得ない。
 彼自身が天皇を崇拝しているわけではもちろんない。天皇という足利幕府以上の「腐った鯛」をありがたがるのが京都の庶民たちであるならば、そちらを手厚く保護することで民心が把握できるなら安いもの。信長の思想はあくまで天下統一に利するか否かのプラグマティズムなのだ。とはいえ信長は
「ただ信長がおもうのは、(果たして天子が、日本統一の中核的存在になりうるかどうか)
であった。将軍ならば『武家の頭領』ということで大名はおそれかしこむ。しかし天子はどうであろう。『日本万民の宗家』というだけでは、人は恐れないのではないか。第一天子こそ偉い、という知識が、満天下の諸大名になければ天子の利用価値は薄い。(中略)(むしろ将軍館よりも、天子の御所を立派にする必要がある。それだけで一目、世の者は天子の尊さをしる)信長の発想はつねに具体的であった。しかもその思ったことをすぐさま実行するちからも、苛烈なばかりである。」
 なお、彼と全く同じ発想で皇室を保護した最新の例は、おそらくマッカーサーだろう。

比叡山焼討
 足利義昭を奉じて上洛したものの、反信長勢力が包囲陣を作った。北近江の浅井、越前の朝倉等の大名だけでなく石山本願寺や比叡山延暦寺などの寺社勢力もあった。この中で史上最悪の被害をもたらしたのが、浅井・朝倉の落人をかくまった比叡山の焼討であった。それまで寺社勢力は仏罰を恐れる中世型の大名から保護されることはあっても攻撃されることはまずなかった。ましてや全山焼き討たれることは想像すらできなかったはずだ。が、それを平然とやってのけたのが信長である。そもそも彼は十代で父親を失ったときにも、葬式についてこう考えている。
「何の役にもならぬものに熱中し、寺に駆け入り、坊主を呼び、経をあげさせてぽろぽろと涙をこぼしおる。世の人間ほどあほうなものはない」
 司馬さんはこうした信長の「無神論」についてこのように書いている。
「『この池には主がおります。大蛇でございます』と、土地の年寄り衆が説明した。(中略)かれはそういう『目にみえざるもの』というのをいっさい否定し、神仏も人間が作ったものだ、左様なものは無い、霊魂もない、『死ねば単に土に帰し、すべてがなくなるのだ。ただそれだけだ』という世にもめずらしい無神論をつねづね言っていた。」
 19世紀のマルクスは宗教を「アヘン」とする唯物論的無神論を唱えたが、その数百年前に信長はすでに唯物論的無神論者だったのだ。それでも仏罰を恐れる人々に対してこう言う。
「木は木、かねはかねじゃ。木や金属でつくったものを仏なりと世をうそぶきだましたやつがまず第一等の悪人よ。つぎにその仏をかつぎまわって世々の天子以下をだましつづけてきたやつらが第二等の悪人じゃ」(中略)汝(うぬ)がことごとに好みたがる古きばけものどもを叩きこわし擂り潰して新しい世を招き寄せることこそ、この弾正忠(信長)の大仕事である。そのためには仏も死ね」
 宗教を隠れ蓑にして人々をだましてきた輩は今なおいるので分からないではないが、ここまでくれば文化大革命である。小6のころの私は無邪気に信長の破天荒さに憧れたが、そのころからすでにこの「仏も死ね」という発想にはそのころからついていけなかった。秀吉も皆殺し令を出されたにもかかわらず非戦闘員の逃亡には目をつむったという。ちなみに秀吉にとってライバルでもあった明智光秀は、焼討に関して信長をいさめたという言うが、焼討後には延暦寺の所領を褒美として受け取っていることから、どう動いたのかはっきりしない。(続)


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