見出し画像

7年間カウンセリングを受けた結果、衝撃の一言 ー強迫、双極症ー 闘病記【25】

ラミクタール登場

前回はバイトを始めたところまで述べました。今回はその後の治療経過を述べたいと思います。

リチウムが効かないので医者は困っていました。ちょうどその頃ラミクタールと言う薬が双極症に適用になるという情報が入ってきたような時期でした。

そこで医者はフライングで、まだ保険適用前のラミクタールを私に試すことにしました。

医者としてはあまりよろしくないことだったらしいですが、「特別」に出してもらいました。

医者は「これで双極性障害Ⅱ型のうつは治ります」と自信満々でした。
それを聞いて私も期待しました。
しかし、飲み始めても何も変化がありませんでした。

ラミクタールが効かないことに医者は焦っていました。量が足りないのだということでどんどん増量します。しかしうつ状態に変わりはありません。病状は全く変化がないのです。

非常に残念ですが、ラミクタールは私に効果がなかったのです。
あまり量を増やしすぎたのでしょう。発疹が出ました。
それから量は規定量に戻りました。

リチウム、ラミクタールとその当時、双極性障害Ⅱ型のうつに効くと言われる薬は試しました。しかし薬物療法の成果は出ませんでした。

えせ認知行動療法

そこで医者が始めたのが認知行動療法でした。その当時巷でちょっと流行っていたのでやってみようということになったのでしょう。

まず医者は認知行動療法のやり方を数回に分けて説明をしました。その説明で認知行動療法がどういうもので、どのようにして偏った思考を改善していくかという道筋は分かりました。

それではこれから実践しましょうとなりました。受診時に自分が日頃認知行動療法を使って思考の改善をやった経過を話しました。

それで終わりです。フィードバックが全くありませんでした。そもそも短い診察時間では私が少し話すだけで終わってしまうのは当たり前です。

私が一方的に認知行動療法から学び、実践したことを報告するだけでした。なんじゃこりゃと思いました。そもそも私は以前からカウンセラーに認知行動療法をベースとしたカウンセリングを受けていました。

そのため医者の認知行動療法がいかに粗雑で無益な治療であるかと言うことがよくわかりました。こんなやり方では意味がないと言おうかと思いましたが、高圧的な医者なので何も言えませんでした。
それはえせ認知行動療法でした。

大学病院

そんなこともありクリニックの医者に不信感を抱くようになりました。そこで思い切って大学病院の精神科を受診してみることにしました。

大学病院で言われたのは、診断に関しては双極性障害Ⅱ型で間違いないということでした。
また大学病院の医者はそのクリニックの先生と一緒に双極性障害Ⅱ型についての勉強会をやっているから、薬の処方は変わりませんということでした。

クリニックの方が近いし、待ち時間も少ないのでクリニックを受診するように言われました。

不満がありましたが仕方ないのでクリニックに通い続けることにしました。

せっかく診断名が変わり、薬も大きく変えたのですが治療の効果は上がりませんでした。私は途方に暮れました。

うつ病の治療をしてもだめ、双極性障害Ⅱ型の治療をしてもだめ、認知行動療法もだめでした。八方塞がりになりました。

認知行動療法について思うこと

その時の私には認知行動療法が合わなかったのです。認知行動療法は適切な指導者の下で行えば一定数の人には効果があるようです。

しかし残念なのは認知行動療法が出来る人と出来ない人がいるということです。自分の思考のくせに気づいてそれを修正していくという作業は精神的に余裕がないと出来ません。そして努力を要します。

そのためどうしても出来ない人が出ます。また自分の思考を変えていき病気を改善していこうという考え方はどこか進歩主義の面があります。

そもそも頑張り過ぎてうつ状態になる人が多いにも関わらず、そう言った人にさらに努力させるというのは酷な話ではないでしょうか。

それならば、ストレスを減らす方が簡単で効果的だと思います。ちょっとした工夫でストレスを減らすことは出来ます。それについては後々述べていきます。

仕事について

大学院はしばらく休学を続けていたのですが、期限が来てしまい卒業が出来なくなりました。そこで大学院を退学することになりました。

私の研究者としての道は閉ざされることになりました。非常に残念でした。そしてこれからどうやって生きていけばいいのか分からなくなりました。

研究者としての未来を妄想していたのでそれ以外の選択肢は考えていませんでした。

働くしかないと思いました。しかし現状はカレー屋のバイトをすることで精一杯です。

とにかく病気を治さないことには働くことが出来ないと思いました。
働かねばならないという考えが私に迫ってきました。

前から述べているように、この時もあるべき自分像に縛られていました。

  • 8時間仕事をしなければならない

  • 正社員にならなければならない

  • 他人が認めてくれる仕事をしなければならない

  • 男は仕事を生きがいにするべきだ

等々自分で作り上げたあるべき姿にとらわれていたのです。
人並みに仕事が出来るということが、生きていく最低条件のように思っていました。

また同時に他人からどう思われるかということを過度に気にしていました。

現実の自分とあるべき自分像はかけ離れていました。現状の自分を認めることが出来ませんでした。

またその当時は障害者に対して偏見を持っていました。

  • 障害者は不幸である

  • 障害者は結婚できない

  • 障害者枠で働くことは一人前ではない

このような偏見を持っていたため、自分が障害者であるということを受け入れることができませんでした。障害者として生きるという選択肢がありませんでした。その意味すら分かっていなかったのです。

とにかく病気を克服して「普通」に働くことにこだわっていました。

カウンセラーとの別れ

さて大学院を退学するということでカウンセリングが終了となりました。
大学付属の保健管理センターのカウンセラーにかかっていたので、大学に籍がなくなったので受けられなくなったのです。

カウンセラーとは19歳の時からの付き合いでした。初めは私の精神年齢を5歳だと言いました。女性関係でよく叱られました。他にもたくさんの思い出がありあます。

カウンセラーには思っていることを何でも話しました。そんな私に対してカウンセラーもいろんな話をしてくれました。7年間一緒に頑張ってきた、いわゆる戦友です。そんな人とお別れせねばならないということは非常につらいものがありました。

特に実家に帰ってからは依存していました。カウンセラーがいいと言うことならやる、だめだということはやらないという判断をしていました。

そして最終回を迎えるというので大学まで電車を使って行きました。カウンセラーは驚いていました。
病状が悪く、もう電車に乗ることが出来ないと思っていたようです。私もその時なぜ電車で大学まで行けたのかはわかりません。

でも最後にカウンセラーにあいさつしたかったのです。そしてカウンセラーが最後に言ったことは「これからも生き続けてください」ということと「あなたの病気は分からない」ということでした。

7年間相談し続けたカウンセラーに「分からない」と言われたことはショックでした。私は何も包み隠さず話してきましたし、長い時間をかけてお互い信頼関係も培ってきました。それでも私の病気は分からなかったのです。

私の病

私は現代医学、心理学では分からない病気を抱えているのです。
今かかっている医者にも「本当のところは分からない。あくまでも今世の中にある診断名で一番近いものを使っているだけだ」と言われましたし、今は薬については自分で選んで処方してもらっています。

誰にも私の病気は分からないのです。

しかし結果論になりますが私は強迫症の治療で劇的に回復しました。そこまでたどり着くのに24年間かかりました。

24年間あきらめなかったことは良かったのですが、その過程は非常に苦しいものでした。

さて大学のカウンセラーとお別れしましたが、引き続き実家でカウンセリングを受けられるように、近くのカウンセラーを紹介してくれました。

そしてそのカウンセラーのもとに通い始めるのですが、そこでまた一騒動が起こるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?