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ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る/読書memo

大学の授業「文化人類学入門」のテスト対策を兼ねて調べたことを自分用にまとめるnote。

ナショナリズムについて調べるため、とりあえず手元に置いたのが以下の資料。
・ナショナリズム論・入門(大澤真幸・姜尚中 編)
・民族とネイション ナショナリズムという難問(塩川信明)
・ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る(梅森直之編)
・増補 想像の共同体(ベネディクト・アンダーソン著)

とりあえず新書でとっつきやすそうな「ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」から読むことにした。想像の共同体の著者自身の講義を元に、編者の解説を加えた構成だ。


ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る/読書memo

しかしアンダーソンは、このナショナリズムが作用する「舞台」を、「世界」全体と捉えた。すなわち、彼は、個別的なナショナリズムの構造や特質についてではなく、むしろそれらの関係に着目することで、そこに作用する「力」の質と大きさを明らかにしようと試みたのである。こうしたグローバルな「舞台」の設定こそが、アンダーソンの方法を、他の研究と区別する最も重要な点の一つである。...グローバル思想史とも呼ぶべき新しい学問分野を切り開いとことが、「想像の共同体」というテクストの決定的な新しさである。(p136)

アンダーソンは「想像の共同体」を生み出した背景を時間と空間の両面から描写する。
・同じ時間を生きているという感覚(同時性)
・同じ境界の内部に属しているという感覚(限定性)
が共同体という感覚を成り立たせる2つの要素である。

「時間」の同時性
=>「均質で空虚な時間」
今私たちが考える時間は見知らぬ他人同士の間にも、今共に生きているというつながりを作り出していく。(東京の人も沖縄の人も1/27 14:23を過ごしている、というように。)

 そんなの当然だ。と思うところだが、アンダーソンはそうした時間感覚は歴史的な産物であるという。では一体他にどのような時間感覚があるというのだろう。彼は、「メシア的時間」を例に挙げた。

 メシア的時間とは、教会のステンドグラスの人物がその絵の中での時間にあった服装ではなく、その作品が制作された時代と場所にふさわしい形で描写される事実から見て取れる時間観念だ。これまでそうだったことはこれからもそうであり、また今そうであることは過去においてもそうであるという時間観念とも言えるだろうか。
 
「空間」の限定性
・出版資本主義による「標準語」の発明
標準語は出版産業が確立する時期に「書き言葉」として登場した新しい言葉。出版が産業として成り立つためには普遍的に誰でも読める言葉を使う必要がある。(鹿児島弁とかだとみんな読めない)

 そこで登場したのが「標準語」。日本に住む人皆がこの標準語を使うことで統一的な市場が形成される。標準語を使えるものとそうでないものとを区分する境界を分ける限定性を孕んでいる。

アンダーソン曰く
「日本人が日本語を話すのではない。日本語(標準語)を使うことで日本人になるのだ。」

・新聞という共同体
新聞を読むという行為は、北海道から沖縄までこの列島に暮らす見知らぬ人々の間につながりを作り出す儀式である。すなわち新聞を読むたびに、同じく新聞を読む他者の存在を意識することで、共同体(例えば日本人)としての帰属確認を行なっているというわけだ。

「均質で空虚な時間」で開かれた人間のつながりが「出版資本主義」の境界によって囲われる。この「解放」と「閉止」の同時進行が、「国民」という想像体を可能にするメカニズムだ。

---------------------------------(以上メモ)---------------------------------



それはそれとして、読む中で心に残る文があったのでメモ。

本質主義はこう答える。「それはあいつが女(男、韓国人、中国人、日本人、黒人、白人、ムスリム、クリスチャン...)だからだ。」こうして僕たちは、誰かを理解したような気になり、そこで考えるのをやめてしまう。だから本質主義は、決して誰かを深く理解することには繋がっていかない。「本質」とは僕たちが「誰か」を理解する努力を放棄して引き返した場所に立てられた白旗のようなものだ。
(ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る.p126)

ナショナリズム→ネーション→アイデンティティと辿る中で出てきたこの文。よくtwitter上で見かける「〇〇人・男/女性はこうだ...」という決めつけ&それに伴う差別的言動に答えている。

美味しいもの食べたいです