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音楽トリビア🎵「箱根八里」越すに越されぬ大井川に橋がなかったのはなぜ?

先日の箱根プチ旅行の間、1901年(明治34年)「中学唱歌」に掲載された、唱歌・歌曲「箱根八里」がずっと脳内再生されていました💫💫💫
中学校の音楽の授業で習った方も多いかと思います。

「箱根八里」=作詞:鳥居忱、作曲:瀧 廉太郎

🎤氷川きよしくんの「箱根八里の半次郎」とは違いますよ💦

歌詞には、李白の漢詩、中国の故事や古典・歴史に由来する地名・事項が多く盛り込まれています。

📌箱根八里とは?
東海道五十三次の宿場の一つ、小田原宿から箱根峠を越えて 三島宿まで
約八里(約32km)の道のりを指す。
峠を越えるための馬子や駕篭が活躍した。

最後に歌詞付き音源を貼るので、歌詞は遠慮なく飛ばしてお読みください😂
2番は省略、1番のみ。

           箱根八里 歌詞
1.
箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え 後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き 杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は 苔滑らか
一夫關に当たるや 萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす
かくこそありしか 往時の武士

なんとも難解な歌詞ですが、冒頭は「箱根の山は天下有数の険しい難所で、中国河南省にあった関所(関塞)の函谷関(かんこくかん)さえ比べ物にならない」という内容です←その後は省略😓

ところで、江戸時代に東海道を抜けるには、難所と呼ばれるところが2ヶ所ありました。
1ヶ所は箱根の峠越え、そしてもう1ヶ所が大井川です。

大井川は、箱根馬子唄で「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように、箱根以上の難所でした。
江戸時代において大井川を渡るためには、川越人足(かわごしにんそく)に肩車をしてもらうか、蓮台に乗せてもらう以外に方法はありませんでした。

📍川越人足(かわごしにんそく)
12歳頃から見習いとして雑用を行い、15歳頃から「水入」となってさらに訓練を積み、高度な渡渉技術を身につけた熟練者の集団。

大井川を渡る時は、川越人足に肩車をしてもらっていました。
川渡し場の両岸に設置された川会所に行って「川札」を購入します
この川札は、川越人足の肩車で渡る場合には1枚
大きな荷物などがあってもうひとり人足が必要な場合には2枚買う必要がありました。
また、4人で担ぐ蓮台渡しの場合には4枚必要でした。
要するに、川越人足の人数分だけ「川札」が必要になったわけです。

この「川札」1枚を購入するための料金は、
川越人足の体のどの部分まで水深があるかで決まります←水深変動制料金。

↑ の画像の立て札のように、水深が、
川越人足の股の下までだと「股通」となり48文(960円)
褌(ふんどし)の帯の下までだと「帯下通」で52文(1040円)
褌の帯の上だと「帯上通」で68文(1360円)、
乳首より下の位置だと「乳通」で78文(1560円)、
脇の下までだと「脇通」で94文(1880円)となっていました。


💡あれれ?
 人足さん、背の高さも足の長さも乳首の位置も人によって違うはず。
 そのあたり、どうしてたんでしょう??
 誰が基準になったの?←どうでもいい疑問😓


水深が一番深い脇通の日に蓮台に乗れば、94文×4枚(人足4人)で376文。現在の貨幣価値で、1万円以上だったのです。

そして脇よりも水深が深くなると、川止めということになりました。
渡ることが禁止され、水位が下がるまで宿場で泊まることになります。

💡米1升(約1,4kg)  100文
 人夫日当     200文

決められた川渡し場以外の場所を、勝手に歩いたり泳いで川を渡ったりした場合には、「間通(かんどう)越し」「廻し越し」などといわれ、幕府より厳罰に処せられました。

🔵では、なぜ橋や渡し船がなかったのでしょうか?
川越人足は、幕末期、静岡県の島田と金谷、合わせて1,200人ほどいました。
大企業並みですよね。
幕府が橋を架けたり、渡し船を認めてしまうと、これらの川越人足たちが職を失って路頭に迷うことになります。
また、雨による増水が収まるのを待つ間の宿場も立ち行かなくなります。
これだけの規模になってしまうと、幕府もその既得権益を保護したということになります。

江戸時代には、衰微や失業を恐れる島田・金谷の宿場、川越人足の陳情のため、ついに橋が架けられませんでした。

📍その他にも、西からの反乱軍を簡単に江戸に入れないためなど、諸説ありますが、現在は「大井川への架橋は技術的に困難が多く、いったん架橋する とその後の維持管理、修繕、再改築に莫大な費用がかかるから実施しなかった」という説が有力のようです。

📍旅人の側からすると、大井川を越す前に雨が続くと、旅籠で足止めになり宿泊費がかさむので、こういった意味合いからも大井川は難所でした。

橋が架かったのは明治9年(1876)のことで、失業した川越人足の殆どは、静岡の牧之原で広大な茶畑事業に携わることになります
この時、政府に私財を投じて川越人足たちの救済を直訴したのが仲田源蔵。
また、明治維新によって職を失った幕臣(武士)たちも、牧之原の開墾・茶畑の事業を担うこととなり、静岡の牧之原は一大茶産地へと発展しました。

あら?
今日は静岡のお茶の話でしたっけ?
なんだかずいぶんお話が逸れた気がしないでもありませんが、2,000字以上しゃべったので、なんだか喉が渇きましたね。
偶然ですが今飲んでいるお茶、静岡は島田の深蒸し茶でした。

お~い、お茶(大井、お茶)🙇

おあとがよろしいようで😊我ながらけっこううまいオチだった

①藤原歌劇団の創設者、オペラ歌手・藤原義江の「箱根八里」
②「大井川蓮台越の歌」(箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川)

氷川きよしの「大井追っかけ音次郎」でなくてごめんなさい🙏

💚本日もお読みいただき、
ありがとうございました💚