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子育てと学び ユデイトさんの記事を読んで 

下記の記事にコメントを書こうとしたのですが、文字数制限にひっかかってしまいました。ほとんど私信ですが、こちらに書かせていただきます。

子供を持って感じたことは様々ありますが、意外だったところで言うと、子供を通して人間との関わり方を学ばせてもらってるなと感じたことです。

子供は驚くほどこちらの言う事を聞かないし、思い通りに動いてくれません。最初はそのことにとても戸惑いますが、段々と付き合い方が分かってきます。

機嫌が悪いときはこちらの声は届かないんだな。
眠いときは何をしても無駄だな。
まだやり方を覚えてないことは手伝わなきゃな。

基本的なことですが、他者に持つべき寛容な態度を教わったと思います。

また、それと同時に子供は驚くくらいの早さで成長します。
3ヶ月前には全くできなかったことができるようになります。
生活リズムが段々できあがって6時間以上眠れるようになり、座れるようになり、話せるようになり、立てるようになり、歩けるようになり、一人で遊べるようになり、自らの主張を持つようになり、泣き笑いするだけだったのが様々な方法で好き嫌いを表現するようになります。

不思議なことに、これらはこちらが教えることとほとんど無関係に進みます。親が何かを教えるということは、子供が何かを新しくできるようになるということに対して、ほんの微差しか影響しないと思います。まだ歩けない子供に歩き方を教えても意味がありませんし、服が自分で着られない子に一人で服を着させようとしてもダメです。
基本的には子供の成長とは、子供が何かを行う能力を自ら身につけることを意味します。親はその成長を敏感に感じ取り、それに合わせて環境を整えるだけ、ということがほとんどです。

もちろん、一緒に遊んだり、絵本を読んだり、おもちゃを与えたり、旅行したり、色々な人と会わせたり、様々な経験をさせることは大切だと思います。しかしそれは、その経験を咀嚼できるだけの能力が子供にあるときに提供しなければ意味が無いな、というのが実感です。

人に何かを教えるということは、その人が何かを教わる段階まで自分で成長してくれないと成り立たないのだな、と学びました。

そして最後に、子供は親の良心に語りかけ、物事を考えるきっかけをくれる存在だなと思います。
例えば夫婦喧嘩があったとしても、小さな子供を前にして、怒鳴ったり感情的に振る舞うことはなかなかできません。自ずと、今は子供が見てるからやめておこう、ということになります。子供は良くも悪くも親の振る舞いをコピーするのです。親が乱暴な言葉を使えば、子供も乱暴な言葉を使います。親が何かを馬鹿にすれば、子供もそれを馬鹿にするようになります。なので、子供のことを考えれば考えるほど、親は良心に基づいた振る舞いをしようと考えるようになります。

親は神様ではありませんので、あらゆることの模範になることは不可能です。感情的になって子供にあたってしまうこともあります。しかし、そういうときにどのように反省し、子供に謝ったり説明するか。子供はそれをそのままコピーするわけではありませんが、やはりその態度の多くは子供に伝わります。親としても子供に神様になって欲しいわけではありません。人間としてどのように振る舞って欲しいかを学んでほしい訳です。また、無理になんでもかんでも模範的に振る舞って欲しいわけでもありません。なので、親は機械的に子供にノウハウを教えるわけではなく、自らの間違いを晒しながら、子供と一緒にどうしたらいいか考えていきます。

以上、既にどこかの育児本に書いてあるようなことかもしれませんが、子供を持って感じたことを書いてみました。こういうことを書いてみて、自分の中でも発見があったりするので、きっかけをくださったユデイトさんに感謝しています。

さて、以上のような学びについて、実は子育てだけではなくて、日常のあらゆるところにきっかけがあるような気が私はするのです。子供を持って、そのことにも気付かされたと思っています。

日々の現実には辛いこともたくさんあります。自分の人生についてネガティブに思うこともたくさんあります。時にはそれらの悩みから逃げることも大切です。自分の心身の健康を保つことは、人生において何より重要なことですから。しかし、逃げてばかりもいられませんよね。いつかは現実に立ち返らなければならない。そういうことを繰り返すうちに、私たちは辛いこととの付き合い方を覚え、そこから何かを学ぶのではないでしょうか。

子育てからは基本的に逃れることができません。辛いと思っても、ほとんど強制的に子育てには戻ってこなければなりません。それゆえに、親も比較的短い期間で子供との付き合い方を覚え、そこから学びを得ているのだと思います。(その強制性ゆえ、反対に付き合い方が分からない人は、あれよあれよと成長していく子供についていけずに、親から脱落してしまうのでしょう)

ユデイトさんが書いてくださった辛いお仕事や、これまでの人生の後悔にも、きっと付き合い方があり、そこから何かを学ぶことは可能なのではないでしょうか。きっとそれはユデイトさんのペースで見つけていけば良いことなのではないかな、と私は感じています。

私は「年とっても全然楽しいし何とかなるよ」「何も残さなくても生きて死ぬだけで十分なんだよ」と言うことはできません。まだ若いこともありますが、ぶっちゃけ周りの年配の方々を見ていても、こりゃ楽しくなさそうだな、と思うことはありますから。

しかし、他人はどうあれ、自分が年をとったときに自分の人生を楽しくする方法はまだまだ見つけられる気がしますし、子供に限らず自分がこの世に残したものって実は色々あるんじゃないかなという気もしています。それはきっと、ユデイトさんも同じなんじゃないかな、と勝手ながらに思っているのです。

人は自分が幸福なときは、なかなか自分の人生について振り返り、どうして自分が幸せなんだろうとは考えない生き物だと思います。そして、それは辛い現実から逃避していることと紙一重だと思います。だって、この世の中にはそれが自分ごとだと思えば悲惨な出来事はたくさんあるのですから。

何か悩んでいるとき、それはとても辛いですが、現実に立ち向かっている証拠でもあるのでしょう。現実について考え、そこから学びを得るのは産みの苦しみですが、きっと意義があることだと思います。読むのが難しい哲学書を読破して、何か真理に近づいたような学びを得る時と似た行程かもしれません。哲学書を読むときのように、コーヒーを飲んで頭を活性化させたり、あるいは休憩して気分転換したりという時間も大切でしょう。急がずいきましょう。哲学書が多くの読者を抱え、頭を悩ませているように、悩みを抱えている人はきっとユデイトさんだけではありません。哲学書の意味が分からなくて自暴自棄になる必要はないのです。みんなで難しいね、と言いながら1ページずつ読んでいけばよいのではないでしょうか。

不肖ながら、勝手な応答として。

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