歴史を生きる

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があります。言葉の主はドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクだとされていますが、ちょっと調べて見ると、そういう意味で言ったわけでもないらしい...

ともあれ、言葉としてはカッコイイ。

“歴史”という言葉の大げさ感。“賢者”にも盛った感がある。それらの相乗効果と、“愚者”との対比。“経験”は大切なものだけれど、先の言葉の向上感に負けて、「勉強しなければ...!」という気分に人を誘う。

厄介な言葉です。


本テキストはタイトルを「歴史に生きる」としました。我ながら大げさだと感じます。語彙力がなくて他に言葉が浮かばなかったからですが、“歴史”という言葉からイメージされるような、大げさな話ではありません。



以前にも書いたことがあると思いますが、知り合いの人がタヌキにだまされたということがありました。熊野で暮らしているときのことです。

ぼくたち夫婦が暮らして居ていた家の向かいのお母さんの、お姉さんだったか妹さんだったか。ぼくたちの集落の隣の集落に居た人。頻繁にお向かいさん宅へ来るので、そのころには「顔見知り」から「知り合い」の関係に至っていた。

その人が、昨日、タヌキに化かされて、気がついた林の中で眠りこんでいたという。目が覚めたら朝だった、と。向かいのお母さんは、いまどきは珍しいと、笑い話。

聞くと、以前はそういうことはよくあったらしい。向かいのお母さんはそうした体験はないということですが、あの人もあの人もというぐあいに、かつて「体験」した人の名前が上がっていった。ぼくは、「そんなもんかいな」と、そのときは中途半端な感想をもっただけでした。


それから半年ほどして、内山節さんの話を聞く機会がありました。その頃は三重県の宮川村で活動していて、内山さんを招いて講演会を催した。彼はぼくが内山さんに大いに関心を持っているのを知っていたので、呼んでくれたのですね。過疎の村の小さな講演会でしたから、内山さんとも直接話をすることもできました。

そのときに内山さんがしていた話が「キツネにだまされる」という話でした。東日本のキツネが、西日本ではタヌキになるという地域性はあるけれど、かつて山里に暮らす人たちがキツネやタヌキに欺されるような精神性をもっていたのは事実で、だが、それは1965年辺りを境に見られなくなっていたという話。

この本が出版されたのは、それからさらに半年ほど後のことです。

この本において展開されているのは、歴史です。ただしそれは、見えない歴史。記述することが難しい歴史。西暦○○○年にカクガクシカジカの事件があったといったような制度史ではない。精神史。それも「日本人」とひとまとめに呼称される民衆の精神史。

(前略)かつての日本の人々は、自然の世界を清浄なもの、人間の世界を穢れからまぬかれたものとしてとらえていた。いわば生きることは、「自己の本質」を穢していくこととしてとらえていたのである。(中略)
 ここではそれを霊、あるいは魂と表現することにするが、かつての日本の人々は人間が生きていく過程を自己の霊が穢れていく過程としてとらえていたのである。
 とするならばなぜ霊は穢れてしまうのか。それは「人間的」とか「人間らしさ」という言葉で表現される人間だけに備わっている精神や知性が、自然であることに反しているからである。
 伝統的なヨーロッパの思想は、「人間らしさ」を、未来を作りだしていく過程として肯定する。人間が知性をもつことによって文明が開けたと考える。(後略)

この本に出逢ってから、ぼくにとっての歴史とは、民衆の精神史になりました。


当時は樵をしていたというのもさんざん書いているとおりですが(ちなみにネット上のHNは“愚樵”でした)、そんな仕事をしていると、「人間的」であることが反自然であり、しかも「魂が穢れる」ことであるというのは「実感」です。

チェーンソーで木を伐り倒すことには一種の爽快感がありますが、その後にはどこからか罪悪感がやってくる。ノコギリやヨキで仕事をすれば罪悪感は薄まりますが、山里とはいえど、時代はすでにそのような「非効率」を許さなくなっていました。暮らしに貨幣経済が大きく入り込んでいて、お金を稼ぐためにはノコギリやヨキでは追いつかなくなっていました。

「自己の本質」を穢しながら、お金を稼いで生きていく。ぼくもそうした民衆のひとりです。そして、歴史が民衆の精神史であるならば、日々、お金を稼ぐために働いていることは、「歴史に生きる」ことに他ならない。


歴史が大げさに感じられるのは、それが「間接体験」だからです。直接には知りえないことを学んで活かすという構えは、内山氏がヨーロッパの伝統というほうの「人間らしさ」。未来を作りだしていく過程。

もっとも現在のぼくは、ヨーロッパ的「人間らしさ」がヨーロッパの伝統だというのは、内山氏の誤りだと考えています。ヨーロッパにそうした精神(ぼくは「未来主義」と呼んでいます)が生まれたのは、コロンブスのアメリカ大陸「発見」以降のこと。ヨーロッパだって伝統を遡れば、「生きていることは魂が穢れること」という感覚で生きていた(と思います)。


「自己の本質」からみれば、あらゆることは「直接体験」へと還元されて行きます。自身が感覚した現象が自己に及ぼした感情・情動を俯瞰すればそれは自ずから「歴史(精神史)」だし、芸術や文化に接するということは、それぞれの人間・地域・時代の「歴史(的精神)」と交わることに他ならない。

この「交わり」は「直接体験」以外のなにものでもありません。「交わり」を感じる感度を高めること、すなわち、言葉や音や映像から得られる「間接体験」に感応する〈自己〉を感じて、「直接体験」を導き出す回路を太く大きくしていくこと。それが(『論語』でいうところの)〈学習〉です。


〈学習〉の回路を開いていくということは、「自己の本質」を穢していく【歴史】に抗うことでもあります。

そして【歴史】に抗う生き方をできるということが〈しあわせ〉。
【歴史】の流れに乗り、「自己の本質」の穢れを覆い尽くす【成功】とは、似て非なるものです。



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