〈しあわせ〉の哲学

う~む、どうしても大仰なタイトルしか思い浮かない...。たいそうなことを語りたいわけではないのですけれども。

“哲学”なんて言葉を使えば、いやでもたいそうになってしまいます。哲学はやっぱりどうしても「たいそうなもの」です。そうならざるを得ない。

哲学。
言われているところによれば、古代のギリシアは発祥で、“フィロソフィア”、すなわち「知を愛すること」というのが語源。
思うに、「知」というのは希求です。
〔しあわせ〕あるいは〔幸福〕への。


〔しあわせ〕と〔幸福〕は、似ているけれど、違う。

〔しあわせ〕と〔幸福〕の感触の違いについては、コーヒーの「旨味」と「雑味」に喩えた話を少し前にテキストをアップしています。

 (^o^)っ 『幸福の位相』


『鋼の錬金術師』というマンガがあります。
これは名作です。
鑑賞の快楽とともに「大切なこと」を伝える作品だと思うから。

「大切なこと」とは、「たいそうなこと」ではないということです。

「快楽」は「たいそうなこと」の中にある。
『ハガレン』においても、そう。
“錬金術”なる魔法が存在することになっている。
エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックの主人公兄弟は、その魔法を使って母親を作りだそうとして、体を「持っていかれる」。エドワードは右手の左足、アルフォンスに至っては全身を持っていかれてしまう。主人公たちが持っていかれた体を取り戻そうとすることは、錬金術の正体を暴くことにつながり、正体を暴くとホムンクルスというラスボスがいて、もちろん戦うことになって、勝利する。

こうした活劇は、「たいそうなこと」です。
でも、そこが「大切なこと」ではない。
「大切なこと」は「たいそうなこと」の向こうにある。

ラスボスとの最終戦を、エドワードはアルフォンスの犠牲によって勝利する。義手が壊されて頼みの錬金術を使えなくなったエドワードの本物の右手を、アルフォンスは自身を「等価交換」することで取り戻させる。そうやって再び錬金術を使えることになったエドワードによって、ラスボスはぶちのめされて、戦いに決着がつく。

エルリックはそのあと、アルフォンスを取り戻すために自身の「たいそうなもの」とアルフォンスの体とを「等価交換」する。

「大切なこと」は「たいそうなこと」よりも大切

『ハガレン』の名作たる所以は、ここが語られているところにあります。そして、そこを語るためには、「たいそうなこと」が語られなければならない。なぜならば、「大切なこと」は実は「当たり前」のことで、「当たり前のこと」は、当たり前に語られてしまったのでは、その大切さがよくわからない。「大切なこと」の大切さは、「たいそうなこと」との対比させて際立たせないと、上手く伝わらない。伝わらなくなってしまっている、と言った方がいいかもしれません。

作品から引用させてもらいます。

エドワードが自宅の屋根の修理をしている。錬金術が使えなくなったあとのことです。上のシーンの前に

 錬金術が使えりゃ こんなもん 屋根に登らなくても パッと片付くのに・・・

というセリフがあります。
で、ページをめくるとこのシーンになる。

『ハガレン』の作者が伝えたかったことの核心は、ここなのではないか。

 手間がかかるのも いいもんだよな


『ハガレン』は娯楽作品としても名作です。それに留まらず哲学的な意味合いでも名作だと思います。なぜなら、哲学という営為が伝えようとしていること、言い換えれば、哲学が生まれた理由と『ハガレン』が伝えようとしていることとは同じだと思うから。

当たり前の「大切なこと」を伝える。

違いはあります。
それは「たいそうなこと」の取り扱い方。

娯楽作品では「たいそうなこと」は、所詮は空想です。空想であるがゆえに、他人事として楽しむことができる。でも、現実の「たいそうなこと」は「厄介なこと」で、楽しむことはなかなか難しい。

「厄介なこと」を楽しむことができさえすれば。

世に数多ある自己啓発書の類いの主旨は、すべてこれだと言っていいでしょう。どうやったら「厄介なこと」を楽しめるようになるか。楽しむことができる自分になることができるか。

「厄介なこと」を楽勝でこなせるならば、
人生に勝利したも同然!

**「厄介」で「たいそう」なことをこなせるようになれば、

「たいそうな自分」になることができる!!**


でも、エドワードは、それを「大切なもの」と交換してしまいました。

哲学というものは「厄介でたいそうなこと」がなぜ厄介でたいそうになったのかを理解しようとする、厄介でたいそうな営為です。
その目的は「楽勝!」ではない。
実際、「楽勝!」が欲しい人には哲学はバカバカしいものに映るでしょう。そんなことにエネルギーを費やしているなら、自己啓発に力を注げばいいのに。まったく合理的ではない——。


厄介なことであろうがなかろうが、「できる」ことは嬉しいことです。この「嬉しさ」には〔幸福〕も〔しあわせ〕もありません。「できることの悦び」においては〔幸福〕と〔しあわせ〕はまだ未分化です。
〔幸福〕と〔しあわせ〕とが分化するのは、「できることの悦び」を結果に見出すのか、過程に見出すのかで生じる。

 結果に見出だそうとすれば〔幸福〕
 過程に見出そうとすれば〔しあわせ〕

をそれぞれ追求することになる。

原理的には〔幸福〕と〔しあわせ〕は、両方を追求することができます。ただし、同時に追求はできない。これもまた原理的にそうなっています。

物事は何であれ、過程があって結果です。この順番は決して変わりません。けれど、どちらを欲するかについては選択ができる。そのような「自由」を人間は持っている。

原理的にそうなっているものに従っているかぎりは「自由」などというものは生じません。別の可能性を探ることから「自由」は生まれる。ということは、「自由」を行使するというのは、得てして「そうなっている」のとは異なる別の可能性を選択することになりがちです。「そうなっている」のままなら「自由」はそもそも必要ないのですから。

つまり「自由を行使する」ということは、「そうなっている」ことに従うのではなく、そうはなっていないけれど「こうすることもできる」ことになりがちだということです。そして「こうすることもできる」は技術であり文明です。

だから、文明が発達し技術が進むほど「自由を行使して」〔幸福〕を追求するという方向へと傾いていく。技術が進むほどに「自由」は大きくなるなら、余計に拍車がかかります。そうなると過程のほうは蔑ろにされていくことが多くなってしまい、〔しあわせ〕は見失われてしまうことになる。

——と、話は厄介になっていました(笑)

『ハガレン』における錬金術が「たいそうなこと」であるように、現実の世界での文明や技術もまた「たいそうなこと」です。

「たいそうなこと」は重要ですが、最優先ではない。このことは「過程を経なければ結果は生まれない」ということとリンクしています。そのリンクは「当たり前」のことですが、「たいそうなこと」が占める比重が大きくなるに従い、どんどんその「当たり前のこと」がわからなくなる。わからなくなるから、「たいそうなこと」を解き明かして「当たり前のこと」へと至ろうとする哲学は「厄介でたいそうなこと」になってしまう。


厄介ですけれど、でも、愉しいことでもあります。
そうなることができさえすれば..。

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