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霊魂の自由について

ヘッダー画像は、スクエアエニックスのHPからお借りしました。そう、ゲームソフト『ファイナルファンタジー』のなかの一場面、だと思います。

「思います」としか言えないのは、プレーはしてないからで。ぼくも昔はゲームを嗜みました。繰り返しますが、嗜みました。今は、興味がなくはないのですが、いろいろと(カネ、時間)がないので。FFシリーズの最新作が何番なのかもよく知りません。15らしいですけど?

ぼくが『FF』を嗜んでいたころは、画面はこんな感じ。

ヘッダー画像とは大違い。ゲーム機の性能が格段に向上して大量のデータを処理できるようになって、リアリティが感じられる画面になった。技術革新の成果であり、現代人には不思議でも何でもない話です。


今回、ぼくが話をしようと思っているのは、「霊魂について」です。加えて『お金の話』でもあります。

ゲーム、霊魂、お金、それから自由。まったく関係がなさそうな4つの要素を繋ぐのは、情報です。情報処理の進化、発展。


★ 〔霊〕とは生き生きしたイメージ

ヘッダー画像の架空でリアルなキャラクターは、いうなれば“霊”です。ゲーム機が大量のデータ処理を実現させたことで出現したリアルな存在。ぼくたちが棲む「この世界」には実在しませんが、「ゲームの世界」には存在する。

“霊”という言葉が指し示すもの。それは、「この世界(此岸)」にいるか「別世界(彼岸)」にいるか、あるいは「ゲームの世界」にいるかどうかを問わず、生き生きとしたリアルなイメージのこと――という定義をここで提示してみます。

霊というと、これまでは「あの世(彼岸)」にいる存在だと考えるのが一般的でした。昔は「あの世」は実在すると広く信じられていましたが、現代では懐疑的になっていて、ゆえに霊の存在も迷信だと断じられてしまいます。

「あの世」の実在はさておき、“霊”という表現(シニフィアン)で指し示された内容(シニフィエ)を、「ゲーム世界」という新たな世界の出現と合わせて考えると、上の定義のように考えることができると思うわけです。


★ ゲーム機は〔魂〕

生き生きとしたイメージを〔霊〕だと定義するなら、〔魂〕も定義することができます。

すなわち、〔霊〕を出現させるシステムが魂。「ゲームの世界」ではゲーム機が〔魂〕。「この世(此岸)」や「あの世(彼岸)」においては、人間の脳。


★ 環世界

マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知される。そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできているわけである。

上の文章は、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念“環世界”を説明するWikipediaの記述です。

「マダニの世界」には3つの情報しかありません。哺乳動物の接近を感知する酪酸の匂い。吸血の対象が近くによると温度を感じ取り、アプローチする。対象に接触した後は触覚を機能させる。

「マダニの世界」は、進化したヒトと比べるならば単純だと言っていいでしょう。マダニはヒトよりも生存に必要とする情報量が少なく、ゆえに要求される情報処理能力も小さい。

3つの情報しか処理しないマダニが「霊(生き生きとしたイメージ)」を生成するのかいうと、真偽はわからないけれども、しそうにないという感触を持ちます。何をもって「生き生き」とするのかは問題ですが(生きるために必要ならば「生き生き」だと考えることができる)、ヒトのレベルでいう「生き生き(リアリティ)」でないことには間違いはないでしょう。

とはいえ、マダニにだって単純ながらも何らかのイメージは生成しているはずと考えられる。ゲーム機に喩えていうなら、マダニはファミコンに相当すると言うことができそうです。

単純であろうが複雑であろうが、マダニにもイメージ(霊)を生成するシステム(魂)があり、〔霊魂〕は存在すると言うことができます。環世界とは、〔霊魂〕が棲む世界だと言うことができる。


「ゲーム世界」は環世界を内包した閉じた世界です。また「あの世(彼岸)」にも環世界があるとは考えにくい。ということは、環世界が存在するのは「この世(此岸)」だけということになります。


☆☆ 計算能力と愛情

人間の脳は膨大な計算能力を誇ります。CPUの計算能力を示す「MIPS」という単位で測ると、人間の脳の計算能力は1億MIPSだそう。ちなみにファミコンは0.78MIPS,プレステ4は20万MIPSだそうです。

ゲーム機は、〔霊〕の生成に特化したシステム(魂)です。一方、肉体を持つ人間は、肉体の維持にも計算能力を使わなければならないので保有する1億MIPSの能力のすべてを〔霊〕の生成に割くわけにはいかない。

単純な計算ですが、人間が〔霊〕の生成に能力(脳力)の半分5000万MIPSを割いていると仮定し、また人間のデフォルトの〔霊〕生成数を150だとすると、〔霊〕一個あたりに使う能力は33.3万MIPSと計算できて、プレステ4の能力値に近いものになります。

プレステ4が1個の〔霊〕の表現に全力を傾けるなら、人間が感じるリアルに近いものが出てくるというわけです。実際、視覚と聴覚に限られてしまうけれど、プレステ4の〔霊〕は非常にリアリティが高い。


もっとも、人間の場合、持てる脳力を均等に割り振るわけではありません。割り振り方には濃淡があるが普通というか、自然です。

たいていの場合、多くの情報処理脳力を傾ける〔霊〕は身近な存在です。身近にいて、大量の情報収集が可能な対象に多くの情報処理脳力を割り振るのは理に適っている。そして、それらの対象は、まず例外なく「かけがえのない存在」でしょう。

ただ、「かけがえのない」のあり方には正負があります。

一般的に「かけがえのない」というと正のケース、すなわち愛情が存在する場合を指しますが、その逆に憎悪が存在するケースも少なからずある。というより、正と負はキッパリ切り分けることができるものではないのが普通です。

正のベクトルも負のベクトルも含めて愛情と言ってよいならば、「愛情の大きさ」とは「傾ける情報処理脳力の大きさ」だと言えます。


☆★ 言霊が生みだす自由

さて、人間は言葉というものを用います。言葉とは、デフォルト(=150)以上の「大きな社会」を作りだすための社会技術であり、情報圧縮技術です。

たとえば、「犬」という言葉あります。日本のかなで表記すれば「いぬ」。英語ならば「dog」。

左は我が家のフク。右はnuricoさんちのnaniちゃんです。

右、左、中央の文字たちのどれもが、「イヌ」を表示していることはご理解頂けると思います。そして、この三つの表現の中では、中央の「言葉」が圧倒的に情報量が少ない。

言葉は、言語学において「指し示す表現(音声、記号)=シニフィアン」と「指し示される内容=シニフィエ」とに分類されますが、情報量の多寡でいうと、

シニフィエ >>>> シニフィアン

つまり、上の図でいうならば、左右の画像の方がシニフィアンに近いということです。そして、情報量が多いということは、それだけリアリティが高く生き生きしているということ。

このことは誰もが直感できるはずです。


言葉は少ない情報量でリアリティのある大きな情報を呼び出す。この性質が「言霊」です。本来の、すなわち精神的な意味での自由とは、言葉が言霊を持つことに由来します。


「犬」や「いぬ」あるいは「DOG」の小さな情報に反応して、ぼくがまず呼び出す情報はフクの〔霊〕です。nuricoさんならばnaniちゃんのイメージでしょう。ぼくならばフク、nuricoさんならばnaniちゃんという決まりがあるわけではありません。決まっていなくても、自発的に呼び出してくる。だからこその(精神的)自由というわけです。

この自由は、一方で不自由があってこそのものです。ぼくにはフクが身近にいるという不自由。nuricoさんにはnaniちゃんという不自由。しかしこの不自由こそ、その人がその人であるという「価値」に他なりません

その人の「価値」とは、そこに大きな情報処理脳力を傾けているということであり、そうするためには大きな情報が入力できるだけの環境がなければなりません。

が、これは不自由です。


自由とは、小さな情報から大きな情報を、シニフィアンからシニフィエを、言葉から〔霊〕を呼び出すときの、呼び出し方の不自由のことです。

人間が自由であるためには、自身が暮らす環境と深く結びついた不自由がなければならない。不自由がなければ、たとえ自由があっても、その自由には何らの価値もないということにしかなりません。

この、自由と不自由とがワンセットになった状態を指し表すのに、

「自在」


という言葉が適切だろうと思います。


では、経済的自由とは何か?

次回へと続きます。


感じるままに。