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「魔法」のしわよせはどこに?

昨日のノートが、まだわだかまっています....。

 (^o^)っ 『嫌いな言葉~“勉強”』


世界は〈魔法〉に満ちています。
このnoteの世界のなかにも、ぼくたちが生きている世界の〈魔法〉の一部を切り取ってきたものが、日々いくつもいくつも登場してきます。

それは絵の形をしていたり。
音楽の形をしていたり。
言葉の形をしていたり。
写真といった形で直接的に切り取れることも多い。

それらの切り取り行為は創造という言い方をされます。ぼくたちはなぜだか創造が大好きですなんですね。世界を自分のやり方で切り取るという創造が。

学習というのは世界の切り取り方を自分のものにすること。でも、それはあくまで「切り取り方」――いえ、「切り取り」というより「写し取り」と表現した方がいい――で、あって、世界を「自分のもの」にするためのものではない。


『ハリー・ポッター』は読んだことがありません。ファンタジーは大好物なんですけどね。『ゲド戦記』とか『指輪物語』とか、結構好き。日本の作家では上橋菜穂子のものとか。

『ハリー・ポッター』を読んでいないのは食わず嫌いというわけではなくて、ただ、機会がなかったから。あと、いささか捻くれているから。あれだけヒットすると、あとでもいいやと思ってしまう ^^;

魔法が登場してくるような物語には、必ずある前提が出てきます。

 世界は調和している。


魔法とは、世界の調和を支えている要素を少しばかり組み替えて利用しようとすること。その意味において、科学技術は確かに魔法です。

ファンタジーが伝えるのは世界の調和の大切さです。作者がそのことを意識して書いているかどうかはともかく。意識に登る以前の大前提と言っていいのかもしれません。

ファンタジーは調和の大切さを伝えるのにとても適した形式です。現実から切り離すことができるので、子どもにもわかりやすい勧善懲悪を書き表わしやすい。そして必ず、調和を保つことは善で乱すことは悪だとされる。

必ず、です。

しかも、不思議なことに。
子どもたちは調和が大好きです。

この不思議もまた〈魔法〉、いえ、〈神秘〉と言換えた方がいいか。


ファンタジーでなくても、この世界は神秘です。
科学が発達した現代社会では、“神秘”という言葉には、どことなく胡散臭さがまとわりついています。そこを遮断するのにファンタジーという物語形式は有効なわけですが、でも、〈神秘〉が胡散臭くなったのは〈神秘〉そのものが無効になったからではなくて、“神秘”という言葉が濫用されてしまったせいです。

そもそもいうならば、科学だって〈神秘〉から生まれたものです。ニュートンが発見したのは、ニュートンからしてみれば神秘の一端です。慣性の法則も万有引力の法則も、神が作ったこの世界の〈神秘〉を書き表わしたものに過ぎません。ここはニュートンが記した『プリンキピア』という書物において強調されています。

相対性理論を発見したアインシュタインも、表現こそ違うけれど、同じようなことを述べています。

(^o^)っ 『アインシュタインは「スピノザの神」の信奉者』


ニュートンが発見した万有引力の法則と慣性の法則は大砲の弾の弾道を計算するのに役立ちました。アインシュタインが発見した相対性理論は原子爆弾を開発するのに役に立った。でも、ニュートンもアインシュタインも、役に立つために発見しようとしたわけではない。彼らはただ〈神秘〉を知りたかっただけのことです。

ところが、そうして役立つことがわかると、そこに取り憑かれてしまう人たちが出てきてしまう。ファンタジーの世界であれば、調和を乱す悪として描かれる者たちです。

彼らは役立てるために研究開発に打ち込みます。なんのために? だれのために? 役立つことに取り憑かれると、必ず「自分のため」になる。これもまた、必ずそうなる。



『京大ナンバーワン教官が教える「勉強することのホントの意味」』

上の記事がハリー・ポッターの魔法に例えて勉強しなければならない理由を伝えるのを見たときに、ぼくが感じたのは、ファンタジーの世界の言い方でいうならば「チャームの魔法」です。

「役に立つこと」に取り憑かれなさい。


世界は調和しています。けれど、むやみに魔法の力を振るうと調和を乱してしまう。それでも、役に立ちさえすればかまわないと考えるのが悪の魔法使いです。調和が乱れれば役に立つも何もないのですが、「役に立つこと」が先になってしまうと、調和のことが見えなくなる。大切なことを見えなくするのが「チャームの魔法」の効果です。

周囲の大切なことが見えなくなると、自分の中に閉じこもってしまいます。“自閉”です。でも、自閉の人は決してそうは思っていない。魅力あることに打ち込んでいるだけ。だから、それで何が悪いのかがわからない。自分という存在の調和が乱れてしまう。


もう一度、言います。

世界は調和しています。自分も調和していれば、世界の調和に自然に調和していきます。調和に調和していくことが調和というものです。魔法を学習するのは、つまるところ、調和に調和していく「方法」にわがものにすること。だから、調和を乱すために魔法を用いてならないという戒めが、魔法を学ぼうとする者に、最初に、必ず、授けられる。

チャームの魔法はその「戒め」を外してしまいます。片手には魅力を高く掲げ、もう片方の手には脅しを、こちらは低く構えて。


魅力と脅しとを併用する技術には名前が付いています。モラル・ハラスメント”と言います。モラル・ハラスメントは嫌がらせでないんです。嫌なはずのことをいいことのように感じさせること。つまり「チャームの魔法」です。

「勉強することの本当の意味」だとして披露されている言説は、モラル・ハラスメントになっています。「生きづらさ」というのは、モラル・ハラスメントの結果として生じます。その「生きづらさ」を生きる者は誰かに「生きづらさ」を押し付けようとする。それに成功すれば、「生きづらさ」を感じないで済むからです。でも、失敗したら「生きづらさ」を感じずにはいられない。

「チャームの魔法」にかかってしまうのは、そのことを無意識に感じている人たちです。「勉強しなければならない」という「生きづらさ」から逃れたいと実は感じている人たち。


聖徳太子もベアテさんも緒方貞子さんも、そうした「生きづらさ」を抱えていた人ではないと思います。彼らに「脅し」は不要です。Japan As Number 1 でなくたって、彼らは彼らのしたいことをしたでしょう。彼らは他人の「生きづらさ」を解消しようとしてルールを変えようとした。ファンタジーでいうならば、世界を不調和にしている【呪い】を解くために〈魔法〉を学習した。それが仏法であり、憲法であったということです。


今の社会は、社会全体がモラル・ハラスメントにかかっているようなものです。「生きづらさ」が蔓延している、豊かな社会。「魔法」で豊かにはなったけれど、そこらかしこが【シワヨセ】だらけ。誰かに【シワヨセ】を引き受けてもらわなければ成り立たない「豊かな」な社会。

モラル・ハラスメントな言説に気味悪さを感じないということもまた、モラル・ハラスメントに陥ってしまっていることの証拠だと、ぼくには思えてしかたがありません。

感じるままに。