オキナワンロックドリフターvol.56

4度目の沖縄行きは2005年の12月に決めた。上司には友人の結婚式に出席するためという口実で休暇を申請したが、それがまずかった。
今も上司のにやついた笑顔は忘れられない。
「で、あんたはどうなの?なんかうちらにわからんことばプライベートでしとるとだろうけれど、いつまでもそぎゃんことしてふらふらしとっても何にならんばい。早よ結婚して子ども生まんね!」
……自分の産まれ育った家庭環境からくる恐怖と不安からなのか、私の中に結婚や出産という概念は微塵もなく、たまに人に毒づかれる「あんたみたいなのは一生結婚できない」という言葉も、そうなったほうが願ったり叶ったりと思っている私には何のダメージもなかった。
しかし、上司を筆頭とした職場の既婚女性たちはそう思わなかった。彼女たちには私の行動は理解不能で、たぶん「普通」にしてあげないとダメになると思われたのだろう。実際、会社の忘年会で泥酔した上司が私を睨みながらこう言った。
「あんたみたいなのは私たちがなんとかしないと破滅する」、「あんたに言いたいことは山とあるけれど我慢してやっている」と。
その日の夜は彼女の本心が油膜のようにまとわりつき、しばらく眠れなかった。
しかし、それでもまるで磁石についた砂鉄さながらにオキナワンロックへの探求心が潰えなかったのだから、これはある意味運命なのかもしれない。その確信と引き換えに、職場の一部先輩方からは「何かワケわからないことをして私達を見下している」と見なされたのは辛かったが。
2005年12月。4度目の沖縄行きを決行した。中道さんから琉球笛をお土産に頼まれ、ムオリさんからオフ会のお誘いがあり、清正さんにココナッツムーンに来店するというアポイントを取り、さっちゃんとは普天間にあるオスカーの店でジャマイカ料理を食べに行く約束をし、コミュニケーション能力難ありな私にしてはスケジュールはぎっしり詰まっていった。
飛行機は事前に旅行代理店で追加料金を払い、朝の早い便にした。
2004年の失態があるので、楽しめるか心配だったものの、那覇空港に飛行機が近づき、青い海が見えた途端に不安は払拭された。
沖縄に着いてまずしたことは、さっちゃん、オスカー、ムオリさんに到着しましたとメールを送信することだった。
次に、俊雄さんに電話することだが、今回も出掛けているとご家族が申し訳なさそうにおっしゃい、空振りに終わった。
ゆいレールで牧志まで行き、高良レコードで琉球笛を買い、中道さんに送付した。
牧志から歩いて県庁前まで引き返し、少し汗をかいたので、パレットくもじでブルーシールアイスクリームを食べながらバスを待った。
バスに乗り、普天間で途中下車。普天間宮でお参りをし、旅とこれからの無事をお祈りしたらコザへ。
屋宜原のヤシの木を抜けて、プラザハウスが近づくと胸が弾むはずなのだが……。街はますます寂れていた。中の町添いのディスコピラミッドのスフィンクスが寂しそうな佇まいで、寂れゆくコザの街の空気を助長させていた。
澱んだ空模様が変わりゆくコザを代弁しているようだと思った、そんな4度目の沖縄旅行第1日目だった。
私は中の町で下車し、辺りを見回したのだが……、中の町方面のあまりの変わりように腰を抜かした。
隕石でも落下したかのようになった中の町方面を見て、再開発は現実なのだと思い知らされ、項垂れるしかなかった。
項垂れながら、再開発前の街の風景を記憶から引っ張り出した。双竜飯店、大衆食堂ミッキー、縦読みの英語のネオンサインが眩しいバーやスナック……。それらが皆失くなってしまっていた寂しさと悲しさ。旅人のエゴだとわかっていても、コザらしさがどんどん櫛の刃が欠けていくように消えてしまったような気分になった。さらに、ゴヤマートが再開することなく廃業し、跡地がコインパーキングになったことも沈む気分をだめ押しした。
かろうじて、歩道橋は残されていたので、せめて歩道橋から見えるコザの街を撮ろうと歩道橋を渡り、写真を撮った。

まだ、コザの街にダウニーの洗剤とアメリカの少し薬臭い風味がするキャンディとバターの香りがしていた頃の風景を網膜だけではなく、写真という形にしようと私は写るんですを落とさないように慎重に撮影した。
そして、深くため息をつき、着替えとお土産で重い鞄を引き摺りながら京都観光ホテルにチェックインしたのだが、以前より薄暗い雰囲気になり面食らった。
今思えば、改装か廃業かで京都観光ホテルは揺れ動いていた時期なのかもしれない。以前よりも侘しい佇まいになったホテルの中を見回し、当時は何も知らなかった私はどうしたんだろうと狼狽えた。
荷物を置いたら、パークアベニューはコザ食堂で遅いランチだ。
栄子マーマーにチャーハンをオーダーした。牛コマを小さく刻んだチャーハンはピーマンと人参の彩りが鮮やかで、黒こしょうでピリッとスパイシーだ。
チャーハンを無我夢中でかきこみ、私と栄子マーマーは近況報告をし合った。しかし、パークアベニューの客足は芳しくないようで、おっとりした栄子マーマーの表情は曇っていた。
「どうしようかねえ」
腰をさすりながらため息をつく栄子マーマーの後ろ姿は頼りなげで、私はまたお気に入りの場所がなくなる不安に苛まれた。
代金を支払い、栄子マーマーにお礼を言うと、街の探索だ。しかし、330号線にあったアルゼンチン料理の店マリアが廃業し、まだテナントが入っていないのかマリアのあった場所はがらんどうだった。
古本屋も廃業し、跡地は嘉間良近くにあったゴヤケーキが移転した。シアトルズカフェのあった場所には『ジャックレモン』というライブハウスがオープンし、廃れゆくコザの街並みにも小さいながらも新たな発見があった。
ゲート通りにも変化があった。パークアベニュー、パルミラ通り、一番街と違い、空き店舗がなかったゲート通りにちらほら空き店舗が出ていた。
19thホールタコスの跡地はバーになり、かつての店の面影は小窓だけになってしまった。
南京食堂のあった場所は未だテナントが入っておらず、白く塗りつぶされた直書き看板が主のいないかつての名店の脱け殻のようで心に冷たい風が吹いた。
私はため息をつき、京都観光ホテルへ引き返すと一風呂浴び、思いきって往路だけでもバスでココナッツムーンへ行こうと決心した。
ウォークマンにお気に入りのCDをセットし、いざ、路線バスの旅へ。
私は携帯で時刻表と乗り換えを確認しながら胡屋バス停から伊佐まで向かった。

(オキナワンロックドリフターvol.57へ続く……)
文責・コサイミキ

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