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望郷の旅(6年ぶりの来沖編)vol.3

《はじめに》
前回の望郷の旅をあいろむゆうじさんが自ブログにてリンクしてくださいました。あいろむさん、ありがとうございます。

さて。思い切りコザを満喫しよう。まずはJETの音を久しぶりに楽しもうか。
私は10数年ぶりにJETの黒く重い扉に手をかけた。扉は30年近くの年期を感じさせ、色褪せ、かなりすり減っていた。斜面が急な階段は一昨年挫いて以来よたつきがちな足にはかなりきつく、転ばないように慎重に歩いた。
20年前、JETは照明が真っ暗で芯から冷えるくらい冷房がきいていた。頼みの灯りはステージのライトと、蛍光照明で描かれたジミ・ヘンドリックスのポスターだけだった。
しかし、今は間接照明で仄かに明るく、効きすぎた冷房の代わりに扇風機がそよいでいる。

階段をヨタヨタ歩きながら撮った店内。JETの内装も微妙にマイナーチェンジ。

メンバーも変わった。初代は、オキナワンロックドリフターでも出会いと別れを描いたギタリストのジミー宣野座さん、JETのオーナーであるベーシストのターキーさん、元コンディショングリーンのドラマーであるエツーさんの3人による3ピースバンドだった。(オリジナルメンバー3人の頭文字からJETと名付けられたそうだ)
エツーさんが脱退し、正男さんの息子さんで今は那覇でライブハウスをされているハヤセさんが加入、ハヤセさん脱退後に元マリーwithメデューサのコーチャンが加入したり、ジミーさんが酒により体調を崩されて離脱してからは、職人肌で寡黙なギタリストのあっぴんさんが加入した。あっぴんさんが脱退してからキーボードが入ったりと変則的になった。ギターとキーボードのフィリピン人夫妻が離脱して、様式美系の音を得意とするギターのカズフミさんが加入してからようやく落ち着いた。と、思った矢先にドラムのコーチャンが癌闘病により離脱。コーチャンは2016年夏に世を去った。後任としてコーカソイドの強い容姿を持ち、パワフルかつおかずのきいたドラムを聴かせてくれるモトブさんが加入。以来、JETはカズフミさん、ターキーさん、モトブさんの3ピースで構成されている。

現在のJETのラインナップ。ターキーさんの佇まいに老いを感じさせるも声は健在だった。モトブさんもすっかり貫禄がついた。カズフミさんの変わらなさに驚く。

客層も、変わった。前はアメリカ兵がひしめき合い、ビール瓶が飛び交うような騒ぎを起こしていたが、だんだんアメリカのヒットチャートからロックミュージックが消え、ヒップホップ等がチャートを賑わす時勢になってからは、JETに来るアメリカ兵は懐メロ好きな穏和そうな人たちがちらほら見える程度で大半は地元の根強いファンか私のような観光客が席を埋めている。
時の流れは早くも切ない。
私はカウンターにいる、ターキーさんの奥様であるドーンさんにコーラを注文した。ドーンさんも変わった。以前は矍鑠としていて獅子の鬣のようなダークブロンドをポニーテールにして、注文と怒鳴っていた彼女もすっかり小さくなってしまった。が、眼光の鋭さと威圧感は健在で、コーラを飲み終えてグラスを返そうとしたのを列に割り込んだとみなされて怒鳴られた。少しへこんだものの、ドーンさんの威勢が相変わらずなのがなんか嬉しかった。
JETのレパートリーが70年代、80年代のロックが主軸なのも変わらない。
この日はジャーニーの曲をメインとし、地元の人たちの歓声があがった。カズフミさんのギターは以前はメロディアスな音の癖があったものの、JETの傾向に馴染んだからなのか、ブルージーな音も奏でられるようになった。初々しかったモトブさんのドラムも今ではすっかりパンチがきいている。ターキーさんの歌も、声量が少し落ちたとはいえ、レッド・ツェッペリンの『移民の歌』を唄う際はガレずにハイトーンボイスを出されていたのには驚嘆した。流石である。
やはり、ゲート通りの音はJETに限るなあとしみじみしながら2杯目のコーラを飲み干した。
休憩時間になり、私はJETのメンバーにお土産を手渡した。
カズフミさんとモトブさんが私を見るなり歓待してくれたのがとても嬉しかった。
ターキーさんも微笑みを返してくださった。06年あたりから、清正さんに電話にてきつく注意されたが、オキナワンロック界隈を嗅ぎ回っている内地の女がいるとコザ界隈に私の悪評が立ち、それに比例してかターキーさんの表情が硬化し、来店しても塩対応されがちだった。
でも、その日のターキーさんの表情は、初めて会った時、「まるで深い森の中の村の長老みたいだな」と心の中で比喩した穏やかで優しい表情でなんか泣きそうになった。
モトブさんからは「久しぶり!いつきたの?しばらく来てなかったよね?」と声をかけられたものの、カズフミさんからは「あれ?俺、まいきーを見たよ。前にゲート通り歩いてなかった?」と問われる。

生き霊飛ばしていたのか私!六条御息所かよ!もしくはコザに私のドッペルゲンガーでもいるのか?


私、コザにて生き霊飛ばしていたかもしれない疑惑な証言が出たのが驚きだったが、モトブさん、カズフミさんと時の隔たりを忘れて談笑でき、心が温まった。カズフミさんが奏でたサンタナの「哀愁のヨーロッパ」での渋いギターの音色を手放しで誉めると、

「年期入ってるからね。俺、もう60よ」と衝撃的な発言をされた。

マジかー!アンチエイジングにも程があるだろ!カズフミさん。しかし、私がもう43のおばさんである。私はカズフミさんの年齢を知り、改めて20年の歳月の重さを噛み締めたのであった。

JETのメンバーに一礼し、JETを出てしばらくゲート通りをうろついた。以前はインド系移民によるテーラーが軒を連ねていたゲート通り、老舗の洋服屋だった『エルソンズ』が閉業し、跡地はバーに。ライブハウスの代わりにクラブが軒を連ねた。


昔洋服屋、今はバーなのか……。


私の来沖を知ったムオリさんがメールにてフィリピン人バンドプリズムが人気のクラブ『クィーン』への来店を勧めたが、YouTubeで何度もプリズムの演奏を見たものの、確かに技量はあるがあざとさを感じる音が少し苦手でやんわり断った。念のために『クィーン』の前を通るも、バンドメンバーがフィリピンに帰省しているのか休業していた。街の中で流れるのはヒップホップかねっとりしたR&B。が、唯一、地元の若手バンドがライブをやっているライブハウス『レミーズ』からは粗削りなギターとデスボイスが流れてきて、そこだけ皮肉にも00年代のコザの匂いがした。
ゲート通りから中の町をうろうろしていたらお腹がすいた。夜中に食べる食べ物ではないが、急激に恋しくなった食べ物が思い浮かんだ。『ラッキー』のお好み焼きと焼き鳥である。
以前は中央パークアベニューにあった『コザ食堂』を憩いの場として通いつめていたが、2015年に8月に『コザ食堂』が閉業してからは、憩いの場として必ず立ち寄るようになったのがゲート通りのお好み焼き屋『ラッキー』である。

ど派手な内装は健在。

「いらっしゃい!あ!ミキさん。来てくれたねー!」
柳葉敏郎にコミカル要素を7割増しした風貌のタケさんの笑顔の変わらなさが嬉しい。
私はタケさんにお好み焼きと焼き鳥をオーダーした。今はキッチンカーが出るようになってからは影を潜めた、週末になるとゲート通りのバーの軒先で売られる焼き鳥。大半が冷凍の安い焼き鳥を熱湯で解凍し、それに塩コショウとガーリックパウダー、もしくは安価な業務用のタレで味付けしたパサパサで粗雑な焼き鳥が多い中、『ラッキー』の焼き鳥は丁寧な下処理とタレに工夫が凝らされていて柔らかくておいしいのだ。


夜中にお好み焼き!しかし、ラッキーのお好み焼きは食べたくなる悪魔のお味。

タケさんとバイトの女の子にお土産を渡し、長いゆんたくをした。話題の主軸は『ラッキー』の隣のバイクショップにて起きた火事だ。バイクショップはすっかり焼け焦げて、店の向かいに炭化したパーツや溶けたタイヤが山積みされていて火事の跡が生々しかった。
一歩間違えたら『ラッキー』にも火が回っていたかもしれない。全焼したバイクショップのスタッフの方には申し訳ないが、『ラッキー』に延焼しなかったことを心底安堵した。
お好み焼きは、関西出身のタケさんの腕が光るふわふわのお好み焼きにカリカリの豚バラ、オタフクソースの甘じょっぱさが癖になるお好み焼きで、これを食べたらコザに帰ってきたんだと改めてしみじみする味だ。
しばらくタケさんと店の女の子と談笑。ついついしゃべっていたら喉が渇き、ウーロン茶をおかわりし、焼き鳥も追加。もうカロリーは完全無視である。

腹がくちくなり、また来ますと約束して『ラッキー』を出た。
ゲート通りから330号線を沿い、中の町へ。
宿に戻る前にローソンとセブンイレブンをはしごした。飲み物調達と、お土産になるようなものの物色のためだ。お土産になりそうな海外のお菓子が置かれているローソンにGJと思い、いくつか購入。逆にセブンイレブンはお土産になりそうなお菓子があまりなく、本土化が顕著で少しがっかり。飲み物を買うだけにした。
宿のベッドに寝転がるもなかなか寝付けない。
時計を見ると日付が既に変わっていた。
数時間後には最も緊張する出来事が待っているのに寝付けない。もう一度お風呂で身体を温めて、ポットでお湯をわかし、白湯を啜っても緊張は解けなかった。

(望郷の旅(6年ぶりの来沖編)vol.4へ続く……)
(文責・コサイミキ)



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