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故永しほる『壁、窓、鏡』

すごい詩集を読んだ。故永しほるさんの『壁、窓、鏡』(私家版、2023)。このあいだ北海道新聞文学賞を受賞した弱冠25歳による第2詩集。おなじ道民ということもあり興味をもって手にとったのだけれど、たんにつよい同時代感覚やシンパシーをかんじただけでなく、激烈な才能に突き刺されるような感覚をひさびさに味わった。

まず詩集ぜんたいの構成が独特。詩篇ひとつひとつに題が付されておらず、ダラっと意識が接がれていくような詩法なのもあって、渦中は異様に長い一篇の詩を読んでいるみたい。なんだけれども読み終えて最後、詩集の末尾ではじめて各詩の題があきらかになる。ようは構造レベルで「気づき」への導線が敷かれていて、この二段構えにまずおどろかされた。

文体も洗練されている。静謐でソリッド。抑鬱的でモノクローム。インダストリアルノイズめいた音楽性や、画一化されたディストピア的風景(ちょっと北海道っぽい)なども読んでいると連想される。一行一行はみじかく抑制をかんじさせるし、語彙も平易。けれども書かれる内容はすごく抽象的かつ哲学的。時空間と自意識が容易に融解する。構文破壊は頻出。抽象概念がひとりでにうごきだし、動植物や建築物が「咬合」しあう。比喩はぜんぜん像をむすばない。幽体離脱的な表現にゾッとする瞬間もある。そうした違和感をでもぜんぶ未消化のまま時間だけがズルズルとすすんでいくから、読みやすさのいっぽう、なんども読んで噛みくだきたい気持ちにもさせられる。

詩集題のうち「壁」は世界の他者性を、「窓」は自己から世界へとひらかれる経路を、そうして「鏡」は自己反射の無限反復におちいらざるをえない、あやうい自己再帰性の謂なのではないかと読んだ。だから通奏低音となるテーマはたぶん孤独な自己像(ないし自己身体)と、世界風景との拮抗関係。それで以下はちょっと、詩集の冒頭にかかげられた詩篇を例にとって、もうすこし具体的に読み込んでみたい。

50行からなる全体(聯分けはなし)のうち、まず冒頭7行を引く。

真冬の風鈴のように
鋏の眩暈が濡れて
滴る先で
思うことなく
装置する、
眼球の
事実は空洞を行って

1行目「真冬の風鈴」の、視点のするどさにまずハッとする。夏に清涼をとどける風鈴が役目のないとき、それは硝子質・金属質のつめたい、物質性それじたいとでもいうべき「なにか」でしかない。ただしい季節からあぶれてしまった、時間の静止したなにか。そういう「時間の穴」みたいなものへの発見はもちろん、世界から置き去られた自己自身への認識とかさなるものだろう。ここから一気に無時間的なモノクロの世界へ突入するような予感がある。

2行目「鋏の眩暈が濡れて」。「鋏」は「眩暈」の暗喩的な形容とみえるけれど、つづく「濡れて」然り、うまくイメージが湧かない。ただ以降、「滴る先で/思うことなく/装置する、/眼球の」とつづいていくと、液体化した金属のイメージそれじたいが眩暈のような時間として流動していくような、ゾッとするようなつめたい感覚「だけ」がつくられていく。「鋏」の語彙からも印象される「切断」と、液状化した「流動」ひいては「接続」がここは同時並行で展開されていて、もしか詩法それじたいへの自己言及をふくんでいる、というかんじもする。

「鋏」から「眼球」への接続は、ルイス・ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』の有名な、眼球に剃刀をあてがうシーンなんかも連想させる。もちろん戦慄的だ。「装置する、」が「眼球の」にかかるのならブニュエルだけでなく、機械人形めいたイメージもぼんやり浮かぶし、シュルレアリスムのにおいが全体的にただよう。主体はロボットのように世界のなかで自己疎外を経験しているのだろうか。しかも「眼球の」には「事実」が接がれ、その「事実」は「空洞を行」くのだから、茫漠とした「感触」は、けっきょく最後までただ空転していくだけだ。

詩篇はさらに以下のようにつづく。

そこに
状況との限りない一致があり
魂への疑いだけが
人間であると
見ることによって
生じる二つの時間に
もどかしいその蠅がいて
両手を
擦り合わせている

「空洞を行」く「事実」が「状況との限りない一致」をみるのだから、「状況」そのものが空疎で空転している。この不穏さは「魂への疑い」を「人間」と短絡するペシミスティックな認識にも引き継がれる。この「一致」がありながら他方、「見ることによって/生じるふたつの時間に」という視差=ズレの分岐も生じ、「ズレているのに一致している(一致しているのにズレている)」ような違和がうかぶ。この違和そのものが「状況」だ、ということなのかもしれない。

そこへさらに、やっぱりシュルレアルな「蠅」が召喚されてくる。せわしなく方向を変えたり、すばやく「両手を/擦り合わせている」蠅のうごきは眼球運動そのものにも似る。もちろん腐臭に惹かれる蠅は死体ともつよくむすびつくから、あたかも幽体となった自己が、ふいにおのれの身体(=body)が、死体のようなモノでしかないことへの「気づき」を得た――みたいな、離人症的ともいえる自己認識をこのあたりからはかんじる。もちろん蠅のたてる「ブゥーン」というあの羽音も、頭のなかでぼんやりながれているノイズ(夢野久作じゃないけど)をおもわせる。どちらにしろここは存在不安的だ。

全篇引用してしまうとさすがに無粋だろうから、あともうちょっとだけつづけてみる。

途方もなく
時間を帰るために
私は現実を待っていた
耳もとに
かすかに来客があって
死後に
落下する問いの
暗闇を受け入れる
そして弛緩する

「時間を帰るために」「現実を待っていた」のあいだにもズレがある。現実が時間そのものに遅れている、という存在論的な不安のはなしだとすれば、ここでいわれる「現実」は時制というより「リアリティ」の謂で、「わたしがわたしであるための実感」への希求がいわれている気がする。「耳もとに/かすかに来客があって」にはさきほどの蠅のイメージも陸続している。ノイズがずっと存在の「肉」に裏打ちされているような感覚。

そこへ「死後に/落下する問いの/暗闇を受け入れる」とくると、やはり希死念慮のような「予兆」「だけ」がばくぜんと浮上してくる。こういう予兆が全詩篇にずっと鉄のようにひかっているのだ。「落下」運動じたいが死に似ているが、「死後に」とあるから自己意識が最期におちいる「無」、のようなものをぼんやりイメージする。しかもじっさいは「落下する問い」で、「問い」じたいが「落下している」のだから、自己存在そのものが「問い」であり、ひいては死そのものが「問い」なのではないか――そういう「解けなさ」じたいのことがいわれている気がする。それじたいを指そうとする言葉がずっと対象をそれつづけていて、その運動がそもそも自己存在と似ている、みたいなことなんじゃないか。記法そのものが眩暈だ。

「弛緩」は死後にかんじられる時間のたわみだろうか(「死姦」と音がおなじなのも不気味)。主体のあやうい意識はみずからの死臭をかぎつけ、死後を飛びまわる蠅をおのれの意識で模そうとしているのかもしれない。ちょうどこのへんで詩は半分だけれど、まさに眩暈のような渦、現実時間に空いた穴の最下層まで、ここでは落ちてしまった、というようなかんじがする。

ところが以降、詩篇にはだんだん「光」がみちてきて、にわかに再生の予感がたちこめはじめる(述べたとおり全篇は引用しない)。時間のなかで順に外的世界が(「窓」を介し、「同じ塔」が連接していくことで)結像していき、世界を包摂した自己像が回復をみるのだ。ちょうどこのプロセスが上にみてきた事物とそれをとらえる意識のズレを逆から縫合していくようなかんじで、これは希死念慮への墜落「だけ」の詩ではなく、それと表裏一体の再生過程をもえがく「平衡」の詩篇だったのか、とふいに気づかされる。じっさい、この詩篇は最後「ニュートラル、」という一行で締められる。読点がしめすものはたぶん「そして生はつづく」。生はしばしば死への陥落、およびそこからの回復過程をもふくむ「動的平衡」でしかなく、その振子、あるいは天秤のような運動そのものを、この詩篇は言語で表現しようとしていたんだ、という理解が最後まで読んでようやくわかる。

その「平衡」をあらわすように最後また「鋏」が出て来、詩篇全体がシンメトリーをかたどる。ただこの「鋏」は冒頭のような、死の方角を突き刺す鋭利な死の予兆ではなく、いまは生死の平衡をつかさどるコンパスのようなイメージに取ってかわられる。以下はネタバレになってしまうけれど、詩集最後に付されたこの詩篇のタイトルをあかしてしまおう。「状態/常態」。ああ、やっぱり「(危機的)状態」から「常態」への移行という、天秤のようなシンメトリー性が主題となっていたんだ――と、最後の最後に「答え合わせ」もなされる。

これだけで詩法のすごさや構成の妙がすこしでも伝わっただろうか。戦慄にみちた詩はこの詩篇もふくめ全25篇。すでに述べたように、孤独な主体のさいなまれる存在不安と、主体が対峙する世界との拮抗・平衡関係を一貫してその主題としている。そのなかで時空間の齟齬や離人症的な感覚、動的な崩壊/回復のプロセスが「タイトかつルーズ」な言語感覚によりつづられていく。その機微にすごくイマっぽさをかんじた。そんなわけで最後、哲学的箴言のように謎めいてカッコいい好きなフレーズを三つ、それぞれべつの詩篇からアトランダムに引いて終わる。

ありふれた症例として
誠実な悪意を
裏返して笑っている
かつて痛みだった花が
安らかに
自分の正体を知らないまま

切除された方の
生存の重さに
両手がないということ

思えばどう、牛であったのか
それはいつか滅ぶこと


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