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雪小国

 日が暮れ始めて、家の中でも最も陽の当たらない方角に位置しているので、薄暗い。足を一歩進めるたびに激しく床がきしみ、その音が妙に耳に残って薄ら寒い。天井の模様を恐れていた子供の頃のように、床の軋む音に自ら生の実感を捉えて、まだしも近くを流れる荒川の銀の煌めきに改めて生の果てのような塊を掴まずにはいられない。

 廊下を進んでいくと、遠くに扉が見える。自分の家(だったはずだ)であるのに、その扉の奥にどんな秘密が隠されているのか、まだ知れない。(廊下の奥底の扉だなんて、なんてちっぽけなメタファー。だけれど。)それでも、と思わずにはいられない。それでも、このメタファーに秘められた、一閃にかけるしかないのだ。歩きながらバランスを崩して身が傾くと、この揺れは自身が前に進んでいるからなのか、地面が揺れているからなのか、それさえ明瞭ではなくなってくる廊下の奥には、依然として扉が見えている。

 世界は、「アーリ」と呼ばれるものと、「カーリ」と呼ばれるものの二種類に類別される。「アーリ」は、一行の簡単なキャプションと絵で構成されており、視覚的に一気に情報を受け取ることができる。多くのクリエイターは、素晴らしい「アーリ」を作ることが人生の目標となる。良い「アーリ」はテレビで放送されたり、美術館に飾られたり、教材になったりもする。
 一方、「カーリ」の方は、非常に”危うい”と表現されることが多い。それを構成するものは、多くは文字の連続なのだが、傍目にはおよそ作品として見ることができないものも多い。よく目を凝らしてその主義主張を理解しようとするあまり、その黒さにやられて、自ら果てを認識してしまうことが多々あるため、社会からはあまりいい顔はされない。
 少しずつ扉が近づいてくる。少し傷ついた黄金色の丸いドアノブがついていて、古びてしまったドアの木目から少しだけ向こう側が見えている。
 昔、こんな扉が描かれた「アーリ」を見たことがあった。洋風の結婚式場のようにおしゃれなホテルのパーティー会場で、オークションで競り落とされた「アーリ」は確か、証券会社に勤める茶色のスーツの男が持って帰ったと記憶している。彼は、その莫大な富で以て、レアメタルの埋まっている土地を買い占めようとしていた。そんな彼がその資産の大部分を扉の「アーリ」に費やしたので、少なからず業界はざわめいたものだった。何かその作品には誰にも知られない秘密の価値があるのではないか、と。でも、所詮、「アーリ」は「アーリ」であって、そこに魔術的な価値なんて一つも存在しなかった。その証拠に、彼は真っ当にその会社を勤め上げた後、シンガポールに移り住んで慈善事業を行い、そのまま脳梗塞で亡くなるまで天寿を全うしたのだから。もし、その扉の絵が「カーリ」だったとしたら、彼はきっとその呪術的魅力に囚われて、社会をやり切ることなんてできやしなかっただろうから。 
 では、今目の前にあるこの扉は?
 開けずにはいられない、誘惑的なこの扉は?

 あと数歩だった。あと数歩でその扉の前に辿り着ける。廊下の先はもう、ロードしきれていないように真っ暗で見えない。ただ、正面の扉だけが輝いて見えて、後はドアノブに手をかけるだけだった。
 ドアを開けた先には、平和があるのだろう、時間があるのだろう、自由があるのだろう。そこにはきっと、全てがあるのだろう。
 この扉のイメージが「カーリ」であると理解できた今、その先には、何もかもが存在することがわかった。ストレスフリーな感度をもつリモコンや、悪くならないみかんや、まつ毛を非人間的につんと張った若い女や、四季が、そこには存在するだろう。白の泉だって見つけることができるだろう。
 だが、一度でも指を下に向かってフリックすれば、その真っ暗な廊下は明瞭になって、ぐるぐると回る歯車に少しだけ舌打ちをしながら「カーリ」は消滅するだろう。「カーリ」が消えてしまった後のその家は、瓦礫となり、数年前若い脚本家が映画にしたように、警報が鳴り響き大きなうねりとなって襲いかかる。
 それを止めることはできないだろう。
 それを、未然に止めることはできないだろう。
 生まれてこなければよかった?
 いや、「カーリ」を解き明かすまで、君は死ねないさ。
 ねえ、あの街を取り囲んでいる四つの電波塔は何だい?
 あれは、この街を街たらしめているものだよ。
 あれは、「カーリ」?
 あの四角形を信じていることが大切なんだ。

眠れない夜を過ごしながら、アラームを確認するためにスマホをつけると、デジタル時計が「03:11」と光る。これは呪いかも知れないが、示唆かも知れない。まもなく、関東平野を離れ、薄暗い盆地が迎えてくれる。薄暗いが強固なその街は、いくつかの四角錐で規定され、その圧倒的な歴史でスーツケースの中をいっぱいにするだろう。

 電子音と共に、扉が開いた。

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