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よいお年を

こんばんは、陰山です。
本年もよろしくお願いいたします。


皆さまは、よいお年を迎えられましたでしょうか?
私は大晦日に家庭内で起こった事件(個人的なことなので詳細は端折ります、ご心配なく)が尾を引いて、バタバタというか落ち着かないというか疲れたというか…頭がはたらかない年明けでした。

とは言え、年末にはたくさんの方々と「よいお年をお迎えください」とご挨拶させて頂きました。

この言葉には個人的な思い出があります。
子供の頃、お正月に家族で母方の実家に行った帰り際、
私が祖母に「よいお年を!」と言うと、祖母はクスっと笑いながらも「ほんまやねー」と返事をくれました。
幼い私は、両親が年末に口にする「よいお年を」という挨拶を聞いて、年末年始は分かれ際に「よいお年を」と言うもんなんだ、と思っていたんです。
祖母が「よいお年を」と返してくれなかったことを変に思い、母に聞いてみると「それは年末だけ言うねん。」とのこと。
ちょっと恥ずかしく感じながらも、「まだ今年始まったばっかりなんやから、お正月にも言ったっていいやん!」と、自分は間違ってないと思っていました。

毎年年の暮れには、祖母とのその会話をよく思い出します。
祖母が「それ言葉の使い方間違ってるで」とは言わずに、「ほんまやねー」と受け止めてくれたことを、今になって嬉しく感じます。
言葉使いの些細な間違いは、経験を積めばそのうちに間違ってると分かりますからね。
大人だろうが子どもだろうが、まず受け止めてあげるというのも、大事なことなんだろうなと思います。

パッと頭に浮かんだ言葉を、グッと抑えるという話にちなみまして、
私が、こんな風になりたいと思う方に、源左(げんざ)さんという妙好人がいらっしゃいます。
本名:足利喜三郎さん。通称:源左さん。島根の方です。

この源左さんは、その生涯をお念仏を喜ばれて生きられました。

有名なお話ですが、
ある時、源左さんが夕立の雨でびしょ濡れになってしまいました。
帰り道にお手付きのお寺の前で、
ご住職から「源左さん、ようぬれたのう。」と言われると、
源左さんは「鼻が下向きについていて有難いことでございます。」
とおっしゃったそうです。

鼻が上向きについていると、鼻の穴に雨が入って大変です。
なので、下向きについていて有難いとおっしゃったのです。
ちょっと理解できません。
これが私だと、「なんで雨降ってくんねん」「なんで家族は傘持ってきてくれへんねん」とイライラして過ごすことでしょう。
私が見ているのは、「ない」ものばっかりです。
「空が晴れていない」「傘がない」「家族が私を気にかけてくれない」
ない、ない、ない。「今ここにない」ものばかりを見てしまいます。
源左さんは、鼻が下に向いてついているという「今ここにある」ものを見ておられます。

鼻が下に向いてついている。
当たり前です。
私も当たり前に思っています。

源左さんだって、はじめは私と同じような感情が芽生えたのかもしれません。
しかし、ご法義に出遇い、お育てに遇われる中で、当たり前だと思っていたことが実は当たり前では無かったのだと気づかれたのではないでしょうか。当たり前を、有難いことだと気づけていけることが、すごく豊かな感性だなと思います。


梯和上は、『親鸞聖人の信心と念仏』という本の中で、
「この人だったら、自分の人生に合掌して死んでいけるのでしょう。」
と、源左さんについて述べられておられます。


阿弥陀仏という仏さまは、「なんで今雨が降るねん」としか思えない、煩悩で出来上がっているこの私を、必ず浄土に往生させ仏とするぞと誓ってくださり仏と成ってくださいました。

源左さんが阿弥陀さまにお育て頂いた、その同じお育てが、私の上にも智慧の光となって届いてくださっています。

鼻が下に向いてついていることも、今生きていることも、日常の私が当たり前と思っていることは、何も特別なことはないけれど、これほど不思議なことはないんでしょう。
「ない、ない、ない」と思っている私が、「南無阿弥陀仏」のお念仏に出遇い、その願いを聞かせて頂く中で、当たり前だと思っていたことが、そうではなかったのだと気付かされていく日暮らしであります。

ないものばかりを見ていたら、よい年を過ごすことは難しいでしょうね。
今年もお念仏とともによい年を過ごさせて頂きたいと思います。

なんまんだぶ

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