不安障害の動悸と私


不安障害になって薬を飲みながら暮らしている。
出来なくなったことはたくさんある。

毎朝6時に起きて朝家事をする私も、
公私共に予定をきっちり立てる私も、
恋愛が大好きな私も、
綿密に家計簿をつける私も、
もういない。

7時45分に起きれれば早起きだし、
公私共に予定はゆるゆるだし、
恋愛は全く興味がないし、
家計簿はざっくりだ。

出来なくなった当初は生活の変化に戸惑い、自分を責めることもあった。

「なんでこんなことが出来ひんの?」
「こんなん私らしくないわ」
「前は出来たやん」
「こんな生活続けてたら後退していくんちゃうか」

半年が過ぎた頃から、その葛藤は少しずつなくなっていった。

どんなに自分を責めようが出来ないものは出来ない。
動悸が止まらないのだ。
思考がやれと言っても、体がイヤだと言う。

長年の習慣で以前と変わらず毎朝朝6時に目が覚めるが、起き上がろうとすると動悸が始まるので毎朝おとなしく二度寝している。

仕事の予定をきっちり立てようとすると動悸が始まるので、優先順位が低いものはどんどん後回しにする。
プライベートは今週末のことしか考えない。

男の人に言い寄られると動悸が始まるので、連絡先は交換しない。

家計簿は気が向いたときにざっくりつける。

それでも全く生活に支障はない。

いろんなことが出来なくなっても生活に支障はないのだ。

朝起きられないなら家事は夜やればいいし、
予定はゆるゆるでもなんとかなるし、
恋愛しなくても生きていけるし、
どんぶり勘定でもきっちりしてても収支は変わらない。

そもそも
なぜ早起きしていたのか?
なぜ公私共に予定をきっちり立てていたのか?
なぜ途切れなく恋愛をしていたのか?
なぜ1円単位まで家計簿をつけていたのか?

なぜそうしなければならないと思っていたのか?

自分に厳しくすることがいいことだと思っていたからである。
そうしなければならないと思っていたことは全てかつてコンプレックスだった自分のダメなところだ。

朝起きられないし、
おっちょこちょいだし、
ブスだし、
宵越しのお金は持たないお調子者。

そんな自分がイヤで、打ち消したくて、忘れたくて、亡き者にしたくて、いろんなことを課して、自分で自分をがんじがらめにしてきたのだ。

そんなに頑張らなくても普通に生きていけるという現実を目の当たりにして、私は自分が思うほどダメでないと知った。

早起きは出来ないがあいかわらず公私共に遅刻はしないし、
仕事は今の方がさくさく片付いていくし、
あいかわらず部屋はキレイだし、
恋愛しないほうが心が穏やかだし、
あいかわらずお金はちょっと足りない。

必死になって自分に課していたことは、もうすでに習慣になっているか、そこまでやる必要のないことだったのである。

今の私は病気で、通院していて、病名があって、薬を飲んで暮らしている。
それ故『壊れている』ことになっているが、果たしてそうなのか。
視点を変えれば、自分をがんじがらめにしていた以前のほうが壊れていたとも言える。

以前は動悸という体からのサインがなかったため、どんどん自分をがんじがらめにできた。
だから壊れるまでやれたのだ。

そういう視点で見ると、不安障害の動悸は、今日も私を守ってくれているとも言える。

私は不安障害の動悸を
優しい人が止めてくれている
と捉えることにしている。

44歳にしてようやく、自分に優しくすることを覚え始めたのである。

私は以前の自分より、不安障害になった今の自分の方が好きである。

不安障害は治ってもいいし、このまま治らなくてもいい。

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