【百合小説】図書室のアンジュ

(※支援用に有料にしてありますが、本文は全て無料でお読みいただけます。)

 勉強の手を休め、ふと顔を上げた視線の先には、一時間前から図書カウンターの前で微動だにせず座り続けている女の子の姿があった。
 髪は真っ黒で腰近くまで伸びており、一本の枝毛さえ許さないような艶やかさを湛えていた。横から見ると顔の輪郭の美しさが際立っていて、ぷっくりと膨れた唇やきゅっとすぼまった顎のラインなんかはもう芸術と呼んでも差し支えないレベルだ。
 実際、彼女にはこんなあだ名が付けられている——『図書室のアンジュ』——つまり、図書室の天使ということだ。何故フランス語なのかは分からないが、いつも姿勢正しく物静かに本を読んでいる姿から自然とそう呼ばれるようになった。
「臼井さん、これ、お願い」
「…………はい」
 そよ風が吹くような心地よい返事。
 名前を呼ばれた彼女——臼井さんは、時を止める魔法が解けたみたいにゆっくりと本を閉じる。そうしたなんでもない所作まで優雅で品があった。
「返却期限は、一週間後の二月二十八日までです」
 バーコードを読みとりながら事務的な口調で告げ、目の前の少女に本を手渡した。
「ありがとう」
「……いえ」
 臼井さんは消え入りそうな声で呟く。本を借りにきた少女は無言でひらひらと手を振って、足早に図書室を後にした。
 その美貌や、寡黙でミステリアスな雰囲気が一部の女の子たちに話題になっているようで、臼井さんが図書委員の当番の時は本の貸し出しがいつもより増えるんだとか。女子校であるこの学校では、美しい女生徒にファンが付くのはよくあることだった。
 また、読書家である彼女が担当する『図書室だより』は毎月評判が良い。季節に合った小説や、授業に関連した読み物などが毎回取り上げられていて、臼井さんの選ぶ本はどれも読みやすく面白いものばかりだと好評なのだ。
 本に詳しいだけでなく、彼女は試験の成績も優秀だった。それも国語や歴史科目だけでなく、物理や数学といったいわゆる理系科目も得意としていた。できる人というのは本当になんでもできるものだ。私からするともう雲の上を突き抜けて月の住人のような人だった。
 中間試験が近いので、仕方なく私も図書室で 勉強している訳だけど、断続的にしか集中できなかった。五分ノートに目を通しては窓の外をぼーっと見たり、またノートをちょっと読んでは臼井さんの様子を観察したり……。こんな様子では勉強が捗るはずもなく、まだ試験範囲の三分の一も終わっていなかった。
(臼井さんが家庭教師だったら、私もちょっとは頑張れるかな……)
 なんて、無駄な妄想が頭の中にもやもやと浮かび上がる。
 臼井さんとはほとんど喋ったことがないので、そんな可能性は万に一つもないだろうけど。
 勉強に飽きてくると、現実逃避じみた考えが頭を支配してくるもので。
(でも、あんな綺麗な女の子が隣にいたら、逆に集中できないかも……)
 机に突っ伏して瞼を閉じ、自分の隣に臼井さんの姿を思い浮かべてみる。
 それほど親しい訳でもないのに、自分でも不思議なほど鮮明に彼女の容姿を再現することができて……。

「ん……」
 隣に人の気配を感じて、私は顔を起こした……というか、居眠りをしていたことに今気がついた。何か臼井さんが出てくる夢を見たような気もするけど、具体的な内容はもう忘れてしまった。
「後藤さん、閉室時間……」
「ひゃあっ」
 急に耳元で誰かが囁いたので、口から変な叫び声が漏れてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
 少し掠れ気味の声がした方を向くと、そこには臼井さんが驚いたような、あるいはちょっと申し訳ないような表情を浮かべていた。
 これほど間近で臼井さんを見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 色を忘れたかのように透き通った白い肌に、長く鮮やかな黒髪がよく映えている。濃く濡れた切れ長の瞳はどこか物憂げな雰囲気を漂わせていて、臼井さんの儚げな印象をより強調していた。
「あの……閉室時間なので……」
「え、へいしつ? あ、ああ、閉室ね。もうそんな時間かあ」
 感覚的には数分だったけど、随分寝入ってしまったようだ。なんとなく勿体ない感じもする。
「ごめんなさい、起こしてしまって……」
「いやいや、こっちこそごめんね、わざわざ」
 私はそう言いながら慌ててノートやら教科書やらを鞄にしまい込む。取りあえずよだれとか垂らしてなくてよかった。臼井さんの綺麗な瞳に汚らしいものが映ってしまっては大変だ。
 せっかく話しかけてもらったので、会話の糸口になりそうな話題をなんとか捻りだそうとする。月ほど遠い存在の彼女と仲良くなるには、こういう機会でもないといつまで経っても進展がなさそうだし。
「臼井さんは、この後どうするの? すぐ帰る感じ?」
「えっと……私は、もう少し教室に残って、試験の勉強を……」
「そっか、臼井さんも勉強かあ。私も図書室でやろうと思ったんだけど、ご覧の通り爆睡しちゃって」
「ふふふ」
 お、ちょっと笑ってくれた。教室ではあまり笑っているところを見たことがなかったので、なかなか新鮮だった。
 物憂げな表情の彼女も素敵だけど、笑っているところもかわいらしくてまた魅力的だ。まさしく天使の微笑み……心が洗われる感じがする。
「あの……良かったらだけど……」
 臼井さんは小声でもじもじと言い淀んだ。
「ん、なに?」
「あ、えっと、別に、嫌じゃなければでいいんだけど……その、後藤さんも、一緒に勉強する?」
 彼女の言葉は予想外のものだった。
「え、いいの? 私、一緒にいても質問してばっかりになっちゃうよ」
「うん、それでもいいの……私ね、勉強するときいつも、自分の目の前に生徒がいるつもりで、心の中でひとり授業をしているの……だけど、やっぱり目の前に本当の人がいた方がやりやすくなるっていうか……」
「ああ、確かに、人に説明すると自分の身につくって言うよね。……うん、面白そうだね、それ。臼井さんに教えてもらえるなら、言うことないし」
 彼女に誘われるなんて、ちょっとどころかかなり意外だったけど。どちらかと言うと、ひとり黙々と机に向かっている姿がよく似合うタイプだったから。
 高二の教室は図書室の目の前にあるので、移動時間はほとんど掛からない。私は『図書室のアンジュ』に連れられ、彼女の所属するクラスの教室へと足を踏み入れた。
 窓からは冬の陽射しが浅い角度で差し込んでいて、教室の中をほんのりと橙色に染め上げている。
 三階に位置するこの教室からは、窓に面した校庭の様子がよく見えた。
 校庭では今、少女たちが扇形に散らばってソフトボールをしている。
 スポーツは見るのは好きだけど、超が付くほどの運動音痴なので運動部に入ろうなんて気は到底起こらない。だいたい、冬場にあんな寒そうな格好で走り回るのなんて勘弁だ。
 何か趣味を増やすために文化部に入ることも考えたが、どの部活もいまいちピンと来るものがなく、結局二年の終わり頃になっても帰宅部のままだ。
「臼井さんの席ってどこ?」
「えっと……窓側から二列目の、一番後ろの席……」
「お、ここかあ……うわ、引き出しの中空っぽ!」
「う、うん、家でも教科書があると便利だし……」
「ほあー」
 感心しすぎて妙な相槌を打ってしまう。私なんか、教科書のほとんどは教室の机に置きっぱなしだ。試験期間ですら、全教科の教科書を家に持ち帰るなんてほぼあり得ない。やっぱり普段からの心掛けがまるで違う……。
 私は臼井さんの隣の席をちょっと拝借することにした。机同士をぴったりくっつけて、臼井さんと隣り合って席に座る。
「ねえ臼井さん、世界史のノートって持ってる?」
「うん、持ってるよ」
「少し見せてもらってもいい?」
「いいよ……えっと、これかな」
 臼井さんは鞄の中からごそごそと一冊のノートを取り出し、自分の机の上に置いた。
 優秀な彼女がどんなノートを取っているのか、なんとなく興味が湧いてきたのだ。
 私は見開かれたページにさっと目を通す。理路整然と並んだ黒鉛の文字に、色付きのペンでコメントや図が書き添えられていた。もはやノートというより、これ自体で一冊の教科書なんじゃないかと思うほどだ。
「おお……すごい、やっぱり綺麗だね。字も丁寧だし、よくまとまってるし」
「そ、そうかな……?」
 臼井さんの真っ白な頬にさっと朱が射す。普段の大人っぽい印象から一転、年相応の幼さが垣間見えて思わず頬が緩んでしまった。
 ……いけないいけない。いくらかわいくて綺麗だからって、臼井さんに見惚れてばかりいてはちっとも勉強が進まない。
 世界史の先生は試験で記述問題をたくさん出すことで有名なので、ちゃんと対策しておかないとなかなかいい点数が取れなかった。記号問題も凝ったものが多く、気を抜いているとすぐ赤点になってしまうのだ。だから、臼井さんに教えてもらえるチャンスを生かしてきちんと復習しておかないと。
「うーん、ここら辺とか、まだあんまり整理できてない感じだなー」
 私はノートの一端を指さしながら言う。
「えっと、どこ……?」
 臼井さんは少し腰を浮かして、ずいとノートに顔を近づけて覗き込む。
 自然と肩同士が触れ合い、顔と顔の距離が近くなって、私は何故だか妙にどきどきしてしまう。臼井さんは全く気にしていない風だけれど……。
 臼井さんの艶のある髪の毛……目の前で見ると、本当に絹糸を黒く染め抜いたように美しい。長い髪がさらりとノートの上に零れて、隠れていたうなじが僅かに露わになる。たったそれだけのなんてことない自然現象が、映画のワンシーンみたいに神秘的に映るのだった。
「ああ、宗教改革のところ……」
「そ、そう、そこが色々ごちゃごちゃしてて、難しくて……」
「確かに、色んな地方に派生した運動だから……えっとね、宗教改革はルターのものが有名だけれど、その前に先駆的な運動が既にあって……」
 ノートをぱらぱらとめくりながら、臼井さんはゆっくりと私のための「授業」を開始した。
 落ち着いているけど淀みのないその美しい声は、まるでそれ一つが完成された音楽みたいに教室に響き渡った。
 距離が近いせいで、時折肩越しに直接声の震えが伝わってきた。その感触はくすぐったくもあったけど、どこか温かみを含んでいた。
「……それでね、この宗教改革はドイツだけに留まらなくて」
「う、うん」
 またさらにぐいと身体が寄せられる。やっぱり、説明に熱中しすぎて私との距離感が麻痺しているようだ。なんなら、私がちょっと横を振り向けば、ほっぺにちゅーできそうなくらい顔が近い。
 こんな間近で見ても全く粗のない素肌に、軽く嫉妬さえ覚えてしまう。お化粧はしていないと思うけど、できればこの後もずっとして欲しくないな、なんて押しつけがましい考えが浮かぶ。
「さらに、この影響は大陸に留まらず、イギリスにも広がって……」
 ぐいぐいぐい。
 また一段と顔が近くなる。
 う、臼井さん、か、髪が! あなたの麗しい髪の毛が、私の頬に当たってるっ!
 流石に私はギブアップだった。
「ちょ、ちょっと臼井さん、か、顔近いから、もう少しその……」
「……え?」
 臼井さんは間の抜けた返事をしてこちらを振り返る。途端、彼女は「ひゃっ」と奇妙な声を発した。私の顔がそんなに近くあるとは思っていなかったのだろう。
 やや遅れて、臼井さんの頬がゆでだこみたいに真っ赤に染め上がる。肌が白い分、血の巡りがはっきりと表に浮かんでしまうのだった。
「ご、ごめんなさいっ、私、集中すると周りが見えなくなっちゃってっ……」
「いや、謝るようなことじゃないけどさ」
「でも……独りよがりで喋ってたら、後藤さんの迷惑になるんじゃ……」
「そんなことない」
 自分でも意外なほど強めの口調になってしまった。
「臼井さんの説明、すごく分かりやすいし、声も良くてすうっと頭に入ってくるよ。私、もっと臼井さんの授業聞いていたい。頭悪いから何度も同じこと聞くかもしれないけど、ともかく、臼井さんと一緒に勉強したいんだ」
「後藤さん……」
「……って、教えてもらう側が偉そうに言うことでもないね」
 私は苦笑いを浮かべる。それでも、彼女と一緒にいたい気持ちに変わりはなかった。
 臼井さんはしばらく迷っていたようだったけど、最後には微笑んで、また自分のノートへと視線を落とした。
 その優しい笑顔は、やっぱり天使みたいな微笑みだった。

ここから先は

0字

¥ 100

たくさん百合小説を書いていきたいので、ぜひサポートをよろしくお願いします!