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短歌評論:「歌人」という男――新人賞選考座談会批判(Web公開)


0. 2019年の序文

 本稿は、2014年5月に販売された短歌同人誌『本郷短歌』第3号に収録された評論「『歌人』という男――新人賞選考座談会批判」のWeb公開版である。

 短歌総合誌『短歌研究』で毎年公開される「短歌研究新人賞」の選考座談会を資料とし、「女性的」という批評語に注目することで、「歌人」が中性ではなく「男性」として構築されていることを明らかにした評論である。特に、

 女性歌人が何か自分だけの個性を持って新人賞に応募してきても、保守的な女性像を大きく飛び越えてしまうと、女性的でないという理由でもう一歩受賞に及ばない。かといって一般的な女性像に落ち着いてしまうと、既視感を理由に批判される。このジレンマを抜群の完成度をもって抜け出たとしても、「女性として新しいものを持っている」「これが新しい時代の女性の歌だ」といういつもの決まり文句に回収される。
(6. 終わりに)

 という点を問題にしている。

 若書きではあるが、毎日新聞の歌壇欄や、歌壇の1年を振り返る短歌年鑑の記事をはじめとして、様々な方から意見を頂いた短歌評論であり、まだ大した研究実績のない私にとって、最も被引用回数のある著作である。

 管見の限りで、言及してくださった文章を挙げると、

・栗木京子(タイトル不明)『現代短歌新聞』2014年5月号
・松村正直「ジェンダーと選考」(『毎日新聞』朝刊2014年5月19日)
・中島裕介「作者の個人的属性、時代状況」(『未来』2014年9月号時評)
・栗木京子「身のめぐりからの発信を」(角川『短歌年鑑』平成27年度版)
・阿波野巧也「短歌総合誌について私が不満におもってること」(角川『短歌』2016年6月号時評)
・斎藤寛「括りへの抗い、存在の襞」『短歌人』2018年2月号時評)
・牛尾今日子「現代の対話のために」(『八雁』2018年5月号)
・瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』2021年

 などがある。この序文を書くために調べて知ったが、2017年の第60回短歌研究新人賞受賞作であり、同性愛を主題とした連作の、小佐野彈「無垢な日本で」への批評態度をめぐって、この評論が再度引用されているようである。ジェンダーを主題にした短歌評論として、発表されてから4年経っても注目してくださる方がいることは、誠にありがたい。

 しかし、掲載誌『本郷短歌』第3号は、大学短歌サークルの同人誌であるがゆえに、たしか300部ほどしか刷られておらず、通販ももう行われていない。一応、国会図書館では読めるのだが、著作権の関係上、評論の総ページ数のうち半分以下しか複写することができず、全文にアクセスするのは地方からでは極めて難しい。そこで、当時の編集長から許可を得たので、Web公開することにした(「本郷短歌会」は諸事情により今はなく、会の総意を確認することは困難を極める)。

 いま思えば、「新人賞選考座談会批判」という副題は間違いだったと思う。当時、編集長から「タイトルは改めるべきではないか」と言われたのだが、その通りだった。たしかに挑発的でキャッチーなのだが、誤解を招き、新人賞選考座談会に限らない短歌批評一般に対して持つはずの批判の射程が狭められる可能性がある(というか実際に誤解を受け続けたように思う)。また、いま書くなら、過剰に挑発的な書き方は控えるだろうし、解釈的に読むだけでなく、座談会ページをスキャンし、OCRにかけ、計量テキスト分析によって批評の特徴語を拾い上げるなどするだろう(例:「女性向けAVと男性向けAVの違いを、AV研究者・Python初心者がテキストマイニングで分析する」)。それから、「女性」が構造的他者として構築されていることも、今ならもう少し新しい研究を引用してくるだろうと思う(今まさに博士課程で、ポルノグラフィにとって「女性」は構造的他者であり続けるのか、という研究をしているので)。

 しかし、あくまで、元の評論のアクセシビリティを高めるためのWEB公開であるから、論旨に影響しない程度の一部の軽微な言葉遣い(漢数字をアラビア数字に直すなど)以外は修正を施さなかった。また、原注のほかに新たに3つ注釈を施している。

 なお、サムネイル画像は『本郷短歌』第3号の装丁をイメージしている。



1. はじめに

 『本郷短歌』第3号の特集のテーマは、短歌におけるジェンダー、セクシュアリティであるが、本号に限らず『本郷短歌』はこのテーマについてずっと関心を抱いてきた。創刊号、2号の座談会でも、歌壇でのジェンダーの扱われ方について話題になっている。例えば2号の座談会から発言を引いてみよう。

川野 たとえば新人賞の座談会とかを読んでいると、「これは若い女性ですね」とかってすごく言うじゃない。私、なんでそんなこと言う必要があるのか気になるんだよね。短歌以外でもそうなのか分からないんだけど、短歌だとやたら、「若い女性らしい感性」とか言うじゃないですか。
吉田 「若い感性」まではまだ許すけど、「若い女性の感性」はちょっとイラッと来る気がする。「若い男性の感性」って言う?
(『本郷短歌』第2号、47ページ)

 作品の評価のされ方が、男女で非対称的であるという旨の発言である。本郷短歌会は、以前から短歌批評に現れるこうした性別観に敏感に反応していた。しかし、この発言は単なる印象評に留まっている。説得力をもった声を歌壇に届かせるためには、実際のテクストをつぶさに調査し、印象評を脱する必要がある。

 歌壇で行われる作品批評、鑑賞を網羅的に調査することは不可能であるため、本稿は「短歌研究新人賞」選考座談会のうち最新10年分を対象に分析を行った。これは、(1)十分に創作レベルの高い、(2)まとまった数の連作が毎年、(3)作者の名前や属性が伏せられた状態で、(4)歌壇の中心とも言える歌人たち(原注1)によって批評される、数少ない場だからである。

 なお、角川短歌賞、歌壇賞ではなく短歌研究新人賞選考座談会を題材とするのは、個人的に過去の『短歌研究』にあたりやすかったというだけで、それ以上の特別な意味はない。また、全56回の新人賞のうち最新10年分を選んだのは、最近の座談会のみを調査対象とした方が現在の歌壇の様子が見えやすいと判断したからである。他の短歌賞とのヨコの比較研究、過去の時代とのタテの比較研究は今後の課題としたい(注釈1)。

 2節では、選考委員がどんな女性像を抱いているのか、またどんなものを「女性的な感性」だと考えているのか確認する。3節では選考委員が作者の性別を予想する発言を詳細に調べあげる。4節は3節の結果を受けつつ、「女性的」という評に比べて「男性的」という評が非常に少ないことをして、「歌人」が中性ではなく男性として構築されていることを明らかにする。5節では「女性的な感性」と、新人賞作品に求められる新しさとの間で板挟みになっている女性たちの現状について述べ、「歌人」が男性として構築されていることの弊害を指摘する。


2. 歌壇が抱く女性像

 総合誌に掲載される歌人評や歌集評と、新人賞選考座談会との間の最も大きな違いは、作者の名前が伏せられていることである。そのため、座談会で一種の「性別当てゲーム」がしばしば行われている。

 作者の性別を予想する際、例えば作中主体の「母」という属性、詠みこまれている「ぬいぐるみ」や「コールドクリーム」といったアイテムなど、歌に使われている語が根拠となることもあるが、その他に歌の文体や、作者の感性を根拠とする場合がある。

加藤 私は、この作者は若い女性だというふうに思いました。というのは「こんなにも日々善行をかさねてる私こんなに雨にぬれてる」、この感覚、男だとちょっと弱々しすぎるというか、この雨のぬれ方の感覚は女性かなと。それと「ハーブティー、一人じゃ注文し[ルビ:たのま]ないけれど、君につられて飲んでよかった」というこの追従する感じも。
(2011年9月号112ページ、松木夜鷹「さらばローソン」)

 男が強く、女が弱い。「君」という男に追従する主体性のない〈私〉という極めて前時代的な女性像を、加藤は抱いているようだ。ここまで保守的な発言は10年間の座談会を通じてもさすがに珍しいものではあったが、こうして確かに存在する。生物学的なレベルではっきり表れる性差ではなく、社会的に構築された性差によるこのような性別判断は、かなりの頻度で散見される。

■運河、半島、北斗星、森林、遺跡など対象に独特のやわらかな感性をもって向き合っている。光や闇に対しても繊細に反応した歌が多い。(栗木京子)
(2009年9月号105ページ、服部真里子「天体の凝視」)

 10年分の座談会記録を点検する間、「やわらかな」「瑞々しい」感性、という批評語をいやというほど目にした。最初こそ、女性の作品への発言の端々に現れる「繊細な」「初々しい」「美しい」感性、といった批評語をいちいち記録していたが、きりがないので些末なものは記録を諦めざるを得なかったほどである。それにもかかわらず、このような感性を栗木が「独特」と評しているのは興味深い。そして、加藤が伊波真人「春の印画紙」を「いわゆる銀塩写真の時代をモチーフにした無理のない柔らかい抒情ということで完成度が高いと思います」(2010年9月号89ページ)と評したたった1つの例外を除き、「やわらかな感性」、またはこれに類する語句はすべて、女性が作者だと判断された作品への批評にのみ用いられている。

米川 「今落ちた涙は母が生きていた昨日の水かもしれない夕空」というのも、作者は女の人かと思わせるような叙情的な歌ですけれども、これなども印象的でした。
(2013年9月号126ページ、高橋徹平「青鷺、ひかり」)
加藤 「殖えすぎた極楽鳥花[ルビ:ストレリチア]を半透明のふくろに詰めている夜明け前」、こんな繊細な美しい歌を男性が詠めるということには本当に、吉田さんのいい意味での幅の広さ、これだけの美意識を持った作者というところで今ぐっと点が上がりました。
(2010年9月号102ページ、吉田竜宇「ロックン・エンド・ロール」)

 この2つの発言は、もはや確信犯的だ。叙情的な歌、美しい歌、やわらかで繊細な感性は女性の持ち物だと言いたいのだろう。この先入観に沿った批評が常になされている。かけがえのない個人の特徴を男性的か女性的かの2択に還元してしまう評は貧しいし、豊かな創作を縛る。この問題は「5. 新しい女性性」で詳しく取り上げる。


3. 「性別当てゲーム」分析

 ここまで、選考委員が作者の性別を推測する際に、感性や感覚、文体を1つの手がかりとしていることを確認した、ここで気になってくるのは、選考委員の「性別当てゲーム」は一体どれだけ正解するのか、ということだろう(原注2)。以下、座談会中で、作者女性説があった男性作品と、作者男性説があった女性作品をまとめる(原注3)。

2004年 船橋剛二「青い絵の具」
2005年 野口あや子「セロファンの鞄」
2006年 野原亜莉子「少女人形」
2007年 堂園昌彦「やがて秋茄子へと到る」
2008年 川島信敬「スピン」、しおみまき「ムリムラさん」、原梓「図書館余聞」
2010年 吉田竜宇「ロックン・エンド・ロール」
2011年 馬場めぐみ「見つけだしたい」、松木夜鷹「さらばローソン」
2013年 熊谷純「24‐7」、辻聡之「薄い影」

 以上、男性6作品、女性6作品、計12作品である(注釈2)。最終選考を通過した作品数の10年間の合計が245作品であることを考えれば、とりあえずある程度の正解率があるのかもしれない。

 さて、調査対象とした10年間よりも前のことであるが、この「性別当てゲーム」について、2001年10月20日に行われたシンポジウム「ナショナリズム・短歌・女性性」の第2部、ディスカッションの中で、岡井隆は以下のように発言している。

岡井 (前略)今なんか、女の人も「僕」といって平気で歌を作ります。男だって柔らかい言葉使いますから、ほとんど、見分けがつかない。新人賞などは、無記名で審査しなきゃなりません。そうすると、しばしば最後の段階になって、これ女性か男性か、と馬場さんなんかと話す。絶対これ女性よ、いや男性だと、蓋開けてみたら違ってたりするけれど(後略)
(阿木津英,2003,『短歌のジェンダー』本阿弥書店,105ページ)

 この発言は、平安時代に文体上の性転換、性別越境を許されたのは男だけで、女が漢文(男手)を書くのは公的には許されなかった、という第1部での千野香織の発言を受けているとも読める。平安時代は男だけが性別越境の特権を持っていたけれども、現在はそもそも境界が曖昧で、男性も女性も自由に越境できるのだ、と言いたいのだろう。冒頭の「今なんか」という言い方がそれを表している。

 10年間の選考座談会で、実際とは異なる性別と推測されたのは男性6作品、女性6作品で同数だった。一応確認しておくが、男が女らしい歌を作ってもよい、女が男らしい歌を作ってもよい、という状況があるからといって、すなわちジェンダーレスであるというわけではない。しかし、この数だけ見れば、現在は性別越境の権利は男女どちらも握れている、という主旨の岡井の発言は、サンプル数が少ないので断定は不可能であるけれども、とりあえず間違っていなさそうにも思える。

 しかし、数だけではなく、性別を推測する発言の内容までよく読んでみると、また違ったことが見えてくる。実は、女性6作品のうち、原梓「図書館余聞」を除く5作品は男女両説言われている。さらにその5作品も、以下に見るように、作者の性別が女性なのかどうか少し迷ってしまった、という程度のものが多い。

馬場 ちょっと男だか女だかわからないんですよね。(中略)男の目と女の目とが入れ違いに、混じって出てくるような感じがするんです。
(2005年9月号100ページ、野口あや子「セロファンの鞄」)
加藤 第一印象として女性の歌という感じはまったくなかったんです。(中略)一首一首読むと確かに(中略)、「ぼたぼたと滴り生まれた水たまりみつめるひとりの母なるわたし」あたりで女性の歌だとわかったんです。
(2011年9月号104ページ、馬場めぐみ「見つけだしたい」)

 また、しおみまき「ムリムラさん」も、道浦が女性説を唱えると馬場は最初驚くが、道浦と石川に説得されると、結局納得している(原注4)。

 一方、男性6作品のうち、男女両説あったのは吉田、熊谷、辻の3作品のみで、女性より割合が少ない。しかも、船橋、川島の作品は、見事に女性に「擬態」しており、まるで女性作品の代表のように評されている。

■若い女性のラブソング、たぶん今日の集約的な作品であろうと思いつつ読んだ。(後略)(道浦母都子)
(2004年9月号73ページ、船橋剛二「青い絵の具」)
石川 私、[今回は若い女の人の]団子レースと言いましたけど、若いお嬢さんらしい中でも飛びぬけて感覚がいい感じがした。
(2008年9月号77ページ、川島信敬「スピン」)

 特に川島信敬「スピン」に関しては、受賞作でないのにもかかわらず、6人の選考委員全員が選後講評で触れ、そのうち5人が作者の性別に関する自身の読み違いに関して発言している。やはり断定は避けるべきだが、作品数だけでなく発言の中身まで詳しく見てみると、どうやら男性のほうがより巧く性別越境を成功させていると言えそうだ。


4. 「歌人」という男

 男性の方が性別越境を上手く成功させているのは、平安時代のように、越境が男にのみ許されているからだろうか? 決してそうではない。これは、男性が女性の感性・文体(と言われているようなもの)に化けるよりも、女性が男性の感性・文体に化ける方が大変だからである。何故なら、文体や感性が「女性的である」と評価されるために投入が必要な「女性らしさ」の量よりも、「男性的である」と評価されるための「男性らしさ」の必要量の方が圧倒的に多いからである。

 「女性的な感性」や、ジェンダーバイアスのかかった「やわらかい」「繊細な」「初々しい」といった言葉は座談会中に頻出する。その一方で、男性歌人の感性や文体に対し、何度も特有に用いられる批評語といったものは見つからず、「男性的な感性」に類する言葉は、10年間を通じて以下の2度しか聞くことができない。

穂村 僕も一位に選びました。「自慰のあとのかしこさのまま死ねればと思うのでこれから準備をします」に男性的な自意識の鋭さみたいなものを感じます。
佐佐木 「かしこさ」というのはどういう意味なんだろうか。
穂村 射精の後、一瞬頭がクリアになって、それ以外のときは常にみやみやとアホっていうふうに僕は読んだんですけどね。
(2010年9月号75ページ、吉田竜宇「ロックン・エンド・ロール」)
馬場 岡井さんと比べちゃいけないというけどね、やっぱり岡井さんだって、あのころは若かったんですよ、だけど、あれだけの歌だったからこそ、新しいますらをぶりになったので、荒さと粗雑さって違うのよ。これは私、粗雑だと思う。粗雑をね、荒ぶる男歌だと錯覚させるから、私はこれを否定するの。
(2004年9月号70-71ページ、三宅勇介「戦場のラザロ」)

 前者の穂村が触れている歌は、自慰行為のあとに男性にのみ訪れる(と一般に言われている)、俗に言う「賢者タイム」の倦怠感を題材にしている。感性が「繊細」で「やわらかい」だけで女性的と評される一方で、この歌はいわゆる「男性性」の値が振り切れている。ここまでしなければ「男性的」とは言われない。しかも面白いことに、加藤はこの「ロックン・エンド・ロール」の作者について、「ちょっと飛躍かもしれないんですけど」と前置きしながらも「作者は二十代前半の女性ではないかというふうに思えてきました」と述べているのだ(2010年9月号77ページ)。これでもまだ、十分な「男性的な感性」には届かないのである。

 また、10年間で「男歌ではない」と否定されたことがあるのは、引用2つ目の三宅の連作のみである。「男歌である」と評された歌は1つもない。「女歌である」または「女歌ではない」と評価された作品は10年間で1つもなかったが、これは単に、「女歌」や「女流歌人」といった呼び方がある種の「差別用語」であることに、選考委員が自覚的になっただけにすぎないだろう。「女歌」が「やわらかい感性の歌」と呼び名が変わっただけだ。本稿の問題意識、つまり女性作品と男性作品への批評の非対称性には自覚的でない。「痴呆」を「認知症」と呼んでも患者の数が変わらないのと似たようなものである(注釈3)。すなわち、選考委員が「女歌である」と感じた連作は10年間にいくらも存在しているが、「男歌」は存在せず、「男歌でない」と否定が必要なほど「男歌」に限りなく接近した歌が何とか1つあるのみであった、ということである。

 ここで岡井のシンポジウムでの発言を思い出してもらいたい。男性らしさのシンボルは「僕」という「語」のレベルであり、女性らしさのシンボルは2節で確認した「柔らかい言葉」、つまり「文体」や「作風」、「雰囲気」のレベルであった。女性がただ「僕」を作中主体にした歌を詠んだだけでは、「作者は男性である」と言われることはあっても、「男性的な歌である」と言われることはあるまい。場合によっては2節の高橋と吉田のように「男性なのに女性を思わせるような繊細で瑞々しくやわらかい感性を持っている」と評価されるか、もしくは女性の作者が男性の作中主体を構築したことを見破られる可能性もある。文体レベルで「男らしさ」を構築するのは非常に困難なのである。

 「男性的」と評されるためには、社会的に構築された「男らしさ」を相当量注ぎ込む必要があるという、「性別当てゲーム」をめぐるこの現象は一体なぜ起こるのか。これは、現在「女性」という存在は、「男性ではない」というふうに否定形でのみ定義される存在だということと大きく関係するだろう。

 男と女は、単純で対等な「対[ルビ:つい]」ではない。このことは、最も古くは1789年フランス革命時に「人および市民の権利宣言 Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen」(通称「人権宣言」)が出された直後に、オランプ・ド・グージュが、17条から成る「女権宣言」を発表したことからわかる。オランプは「女」が「人」のなかに入っておらず、「人」が「男」として構築されている、と抗議したのだ。また、男女が非対称な関係であることを論じた最も有名な著作は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性 Le Deuxième Sexe』である。女性は「第一の性」に成り得ず、「第二の性」として存在してしまっている。これは過ぎ去った過去の話なのではなく、21世紀の現在もなおも続いている。女性は今なお男性の残余カテゴリーであり、「人間」にとって「他者」なのだ。このことを短歌にあてはめれば、「歌人」はふつう「男性」なのだと言うことができる。歌人的でない特異な歌を詠んだとき、「女性的」だと評される。

 ここ10年間の「短歌研究新人賞」の応募者の男女の割合は、2011年に男性50%、女性50%だった他は、常に女性の方が割合が多い。それにもかかわらず、平均的な歌人は、無意識に中性ではなく男性として想像されているのだ。社会的につくられた男性度を正の方向、女性度を負の方向にとる数直線のようなものが仮に存在するとして、「歌人」はどちらの数値もゼロなのではなく、少し男性度があるぐらいが「歌人」なのである。

 例えば、仮に男性度20が平均値として無意識に想像されているとして、男性度40の歌は平均値との差は20しかない。しかし、女性度20の歌は平均値から40も差がある。すなわち、歌に少しでも女性的だと判断される何かが微量含まれているだけで、「女性的」だと評され、針が振り切れるまで男性らしさを投入しない限り、男性性は認識されないのである。

 では、「歌人」が「男性」として構築されているとき、何が起きるだろうか。もしも、女性が男性に上手く化けづらいというだけならば、わざわざこうして語気を荒げる必要もあまりないトリビアルな事柄にすぎない。弊害はそれだけではないのである。


5. 新しい女性性 

 新人賞は、もちろん連作の完成度も評価の対象であるけれども、作者の将来性や、歌壇に新しい風を吹き込む個性があるかどうかといったことも重要な評価基準になる。

 しかし、前述のとおり、「歌人」が男性として構築されていると、少量の「女性らしさ」でも作者の特異な「個性」として評価される。つまり、女性の歌人の歌の評価は、いつも「女性的な感性」に回収され得る運命にある。また、座談会では「女性にしては珍しい」といった褒め方も頻出する。前節の結論を踏まえれば、この発言は「ふつうでなく『女性的』であるように見えて、実はそこまで特異でない」ことを褒めている逆差別なのだ。

 新人賞受賞作や次席になった女性の作品のほとんどが、評で女性であることについて触れられている。例をいくつか挙げると、2006年次席の栁澤美晴は「女性ならではの、いい感性を持っている方だと感じました」(2006年9月号80ページ)、2012年次席の服部真里子は「女性の作者の歌にはめずらしく、ユーモアの味わいがあって、そこに注目した」(2012年9月号107ページ)、2013年次席の井上法子は「ピュアな文体」「どこか母性を感じさせるような包容力を湛えているのが魅力と言えよう」(2013年9月号115ページ)と評される。最も顕著なのは2011年新人賞受賞の馬場めぐみだろう。「ある女性的な感受性が、従来のものとはちょっと違う文脈で、すごく痛々しい感じで出てくるというところが印象的」(2011年9月号103ページ)、「今までの一九八〇年代のフェミニズム、あるいは河野裕子さんの母性の歌とは違ったまた新しい、現代に生きる女性の何かが出てきているという感じはしました」(同120ページ)と評されている。また、2009年の選後講評で佐佐木は「女性の歌が変わりつつある」(2009年9月号109ページ)と発言している。

 では、我々は「男性の歌が変わりつつある」という声を聴いたことがあるだろうか? 女性の歌の新しさは女性らしさの新しさとして、男性の歌の新しさは短歌の新しさとして評価されているのではないだろうか。確かに、短歌そのものの新しさに挑戦しているのは女性よりも男性の方が多いのかもしれない。脚本のような分かち書きを短歌に取り入れた2005年新人賞受賞作の奥田亡羊「麦と砲弾」、誤変換的な連なりから多声的な意味を一首に響かせようとするレトリックで、原発事故後の生活という一大テーマに挑んだ2012年新人賞受賞作、鈴木博太「ハッピーアイランド」などは紛れもなく「短歌として」新しく、これを男性性云々で評価するのはおそらく間違いである。しかし、新人賞座談会の候補作以下の作品への批評を読んでも、また新人賞座談会を離れて歌壇全体に目を向けても、「新しい男性性がここに現れている」というような評価は、そう目にするものではない。

 しかも「新しい女性性」といっても、全てが評価されるわけではない。どうやら新しさと「女性性」を巧く両立させなければ評価されないようなのだ。

道浦 例えば「思春期をすぎたあたりは制服のわきばらのしたク・ビ・レ授かる」かつてウエストが細かったというの、やはり女性でしょう。達者な人がわざとやっている。(中略)もうやぶれかぶれも半分あって「ゆめのなかエゴン・シーレのアトリエでつよくよじれて腋の毛を剃る」ここまでやったらちょっとどうかなと思ったりもするんですけど。
(2008年9月号83ページ、しおみまき「ムリムラさん」)

「ゆめのなか」の歌は、捻じ曲げられたポーズや性的なモチーフを好んで描いた「エゴン・シーレ」が十分な説得力を持って「つよくよじれて腋の毛を剃る」動作と結びつく。初句「ゆめのなか」、四句「つよくよじれて」の平仮名書きも夢想的な世界をよく表しており、じっくり読むと一首全体が理詰めで構成されている。ふつう、そうした作歌の手つきが見えると読者は醒めてしまいがちだが、ユーモアがその嫌味を隠してくれており、バランスの良い秀歌である。道浦も「女性で普通なかなか、こういうふうにふざけて歌える人、あまりいない」(同)と、しおみまきが持つ、ふざけた感じさえ受けるユーモアには好意的だ。しかし、道浦にとって「腋の毛」はやりすぎで、「ここまでやったらちょっとどうかな」なのだ。やりすぎとはどういうことだろう。「ク・ビ・レ」という極めて女性的なものと、「腋の毛」が同居することを、道浦は許すことができなかったのではないか。自分にしか詠めない表現を模索しても、「2. 歌壇が抱く女性像」で確認したような選考委員の保守的な女性像をあまりに大きく飛び越えてしまうと、新しさはあっても、「女性的」でないために評価されない可能性がある(なお、2節の高橋徹平、吉田竜宇は男性でありながら「女性的な感性」を併せ持つことが評価されていることにも注意していただきたい)。

 だがしかし、新しさを捨てて、一般的な女性像をただなぞるように詠んでも批判を受ける(2007年・川口慈子「開花予想日」、2009年・やすたけまり「ナガミヒナゲシ」など)。また、女性性をあえて前面に出した作品も批判を受ける(2010年・山崎聡子「死と放埓な君の目と」)。ありきたりな女性性と、常識を超える新しさとの間で、創作者は板挟みにあう。そして、このジレンマの出口を見つけたとしても、次に待ち受けるのは「新しい女性の歌が誕生した」というお決まりのフレーズで一辺倒に評価されるという行き止まりである。作者の性別を過剰に重視する批評は固定的な秀歌観を構築し、創作の幅を狭めることになる。


6. 終わりに

 本稿では最初に、選考委員が「やわらかで繊細で美しく瑞々しい」感性の持ち主として女性を捉えていることを明らかにした。しかし、男性にはどんな感性を求めているかというと、それはほとんど語られていない。それは、「歌人」が中性ではなく男性として構築されているからであった。ゆえに、男性が「女性的」と評価されるよりも、女性が「男性的」と評価される方が困難が伴う。そして女性歌人が何か自分だけの個性を持って新人賞に応募してきても、保守的な女性像を大きく飛び越えてしまうと、女性的でないという理由でもう一歩受賞に及ばない。かといって一般的な女性像に落ち着いてしまうと、既視感を理由に批判される。このジレンマを抜群の完成度をもって抜け出たとしても、「女性として新しいものを持っている」「これが新しい時代の女性の歌だ」といういつもの決まり文句に回収される。

 「歌人」が男性だ、という主張は何も突飛なことではない。「人間」が男性だ、「国民」が男性だ、という主張はジェンダー論の基本である。他にも、筆者がここで語ってきたことは、女性が男性の残余カテゴリーであるだとか、「女性らしさ」という檻に女性が閉じ込められているだとか、どれもジェンダー論の基本的な考え方であり、新しさはない。したがって、もし万が一、歌壇にこの評論が新鮮に響いてしまうことがあるとすれば、それは歌壇のジェンダー観の後進性を如実に表すことになる。

 歌壇が変わるのは、歌が変わるときだけではない。作家と批評は車輪の両輪であって、片方が先行するということはない。今までにも、ジェンダーの枠組みを食い破ることを試みた歌はあったのかもしれないが、それは保守的な秀歌観のもとで正しく評価されなかったのではないだろうか。今こそ批評のモードが変わらなければならないときかもしれない。それは「男性にも女性らしい良い歌が作れる。女性にも男性らしい歌が作れる」と認めることではない。何故なら、女性らしさ、男性らしさというものを本質的にすでに与えられているものとして考えているからである。それを男女平等な歌の世界だと思ってはいけない。そうではなく、男性らしさ、女性らしさというものを、もっとどうでもよいものとして捉えた批評が可能ではないだろうか。男女の二元論を脱出し、個人を見つめる批評によって、歌壇はもっと広々とするはずである。



原注および、2019年の注釈

原注1 選考委員は、2004年は岡井隆、馬場あき子、島田修二、石川不二子、永田和宏、道浦母都子の6人。2005年、2007年は岡井、馬場、石川、佐佐木幸綱、高野公彦、穂村弘の6人。2006年、2008年は岡井、馬場、石川、高野、永田、道浦の6人。2009年から2012年までの4年間は、佐佐木、栗木京子、米川千嘉子、加藤治郎、穂村の5人。2013年は栗木、米川、加藤、穂村の4人。最終選考通過以上の作品、すなわち座談会の場で批評された作品の数は、2004、2005、2006、2008、2013年は24作品、そのほかの年は25作品。

原注2 言説をフェアに取り上げ、選考委員に味方しておくと、栗木京子は「男性、女性はどちらでもいいんですけどね」(2013年9月号125ページ、辻聡之「薄い影」)、佐佐木幸綱は「作者の年齢を当てっこしてもしょうがないだろう」(2005年9月号101ページ、野口あや子「セロファンの鞄」)と発言したことがある。作者の属性と作品の評価は関係がない、というスタンスである。しかし、言葉とは裏腹に、2人とも「性別当てゲーム」や「年齢当てゲーム」に興じているように見える。このゲームの楽しさは何なのだろう。

原注3 実は、『短歌研究』の読者には、最後まで作者の性別が明かされることはない。そのため、作者の性別は括弧つきの「常識」によって、名前から筆者が判断した。

原注4 石川は「男性が太宰に抱かれたってしようがないでしょう」と説得する(2008年9月号83ページ)。2008年の米田収「麦」と、2006年の「野原亜莉子「少女人形」も同様に、選考委員は性愛の相手の性別から作中主体の性別を判断しようとしている。しかし「少女人形」の場合は選考委員は性別の確定に成功していない。また、「少女人形」に対する、高野の「異様な性的な部分として面白いとは思うんですよ。最後、男と男が愛し合うものもあるし、女が人形を愛するのもあるし、あるいは男が作者を愛するとか……。」(2006年9月号98ページ)という、同性愛を「異様な性的な部分」とする発言にも注目したい。歌壇が特別に異性愛主義的な空間なのか、短歌という詩型が異性愛主義的読解を呼び込むのか。おそらくはその両方であろう。


注釈1 なお、ヨコの比較は次年度に「年齢の「虚構」に関するノート――「歌人」という男・補項」(『本郷短歌』第4号)で「角川短歌賞」選考座談会も分析対象とすることで、多少補完された。「角川短歌賞」選考座談会の言説空間も、「短歌研究新人賞」選考座談会の言説空間と同じジェンダー観、年齢観を持っているように思われる。

注釈2 これは松木夜鷹を「女性」にカウントしている。執筆の翌年に見かけたポートレートから松木が「男性」であると判断したのが誤りでなければ、正しくは男性7作品、女性5作品である。後述の「男性のほうがより巧く性別越境を成功させていると言えそうだ」という中間的結論は、影響を受けないどころか、むしろ補強される。

注釈3 もちろん、「男歌」も一種の「差別用語」であろう。また、実際には、「痴呆」から「認知症」に言葉が変わり、込められたイメージが変わることによって、暗数となっていた潜在的「痴呆」患者が「認知症」患者として「発見」される可能性はあると思われる。



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