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配偶者がADHDだったときの現実

近年、ADHDなり、アスペルガー症候群なり、境界知能なりが、メディアでしばしば扱われる。先程もYouTubeでその特集番組を拝見した。

傾向としては、そういった方を「どうみなすか」といった、差別抑止の観点で語られる傾向が強い と感じている。

結論から言って、虫唾が走る。

関係者として、思う所をぶちまけたい。


無関係な人間は黙ったほうがいい

私は、精神科医などの専門家や、身内にこういった方々がいる人以外、無関係な人間は、無責任に発言せず、基本的にはこの話題に触れるべきではないと思う。

"こちら側"からすれば、メディアのコメンテーターらが「ADHDの人をどうみなせばよいか」「ASDと社会はどう付き合えばよいか」と議論する様が、まるで動物園の檻の外から珍獣を批評している様にしか見えない。

無関係な人間に議論してほしくない理由

理由は簡単で、そこには何も意味がないからだ。

私も医者ではないので完璧な定義までは述べられないが、大前提としてADHDやASDといったものは精神医学分野におけるかなり広い範囲をまとめたカテゴリー名称でしかなく、一定の傾向はあっても、実際の症状は無数にある。「度合い」の問題ではなくて。

よって、XXXさんはADHDである、と言われたとて、では実際にXXXさんはどういう課題があるのか?は実際に同じ環境で過ごし、様々なシチュエーションで時間を共にして、かつ濃厚なヒアリングを行わない限り、実態は見えないことが多いはずだ。有識者による試験に加え、結果も有識者によってでしか、正確には判断できない。

であれば、「"ADHDの人"に対してどう接したらよいか?」といった一般論的な議論が如何に無意味であるか。それ、誰だよ と。

責任を持たない無関係な人間が、無価値な議論をする意味は?

当然、その"ショー"でViewを稼げるからだ。注目を集めるからだ。
要は見世物小屋と変わらない。つまり完全に差別だ。

差別された側は何を思う?当然、不快だ。
だから"こっち側"の私は不愉快だ。

…とは言え、誰しもが「見世物小屋見に来ました!」などと悪趣味を自覚して注目しているわけではないだろう。

それはどちらかというと無自覚で、むしろ"なんとかしてあげたい"という気持ちから が大半であろうことは、私だって理解している。

だが残念ながら、その程度の覚悟でなんとかなるほどADHDやASDの問題は浅くない。どうせあなたたちには何もできない。まずはそこを理解しなければならない。

そのうえで、救う力のない人間の偽善的な行為は、無関心以下の侮蔑と理解できれば、自ずと「触れないべき」とわかるはずだ。

まるで関係者かのようなツラをするのをやめろ

身内にADHDやASDが居ない人間が、まるで関係者かのようなツラをするのは控えたほうが良い。

職場の同僚にADHDやボーダーの方がいて…といった"お悩み"が、よくメディアでこの話題に触れる際の枕詞に使われる。

でもそれは「差別しないワタシ!」のブランディング確立を目指すクズが、この話題に参加できる「許可証」がわりに使う、ペラッペラな口実だ。

ちょっと例をあげてみようか。

Ex1.ADHDやASDの人間でも活躍できる職場とは?

「ADHDやASDの人間でも活躍できる職場とは?」
「ADHDやASDの人間が働きやすい環境づくりとは?」
みたいな論調を見ることがある。

それは経営者か、ADHDやASDの人向けに届けるべき情報だ。
衆目にさらすコンテンツではない。

そもそも、前述の通り星の数ほどある症状に対し、メディアが適切な情報を提供できるわけもない。それは医者の仕事だ。

当然、メディアだって分かって発信している。
では、何の意味が?

Ex2.その同僚、もしかしたらADHDやASDかも?

うっかりミスが通常より多い、コミュニケーションがうまく図れない。
そういった人との「うまい付き合い方」といった論調もよく見る。

これについては、一定の価値はあるとは思う。

ネット社会で、これまで暗黙知とされていた様々な知見が、たやすく手に入った代償として、とんでもない母数での「普通」が、現代には見える化されている気がする。加えて、部下に対する取り扱いのTipsはめちゃくちゃ溢れている。

そうなると、「普通」なら「これだけ手をかければ出来るはず」などという評価が生まれてくる。

理解を超えてできない部下に、納得できる理由を欲する気持ちはものすごくわかる。また、当人が実際にADHDやASDであるかどうかは別問題として、「病気なら仕方ない」と、折り合いをつけられる場合があることは否定しない。

とは言えだ。

ADHDやASDであるかどうかに関わらず、できないやつ・やらないやつなんてのはこまんといるし、結局は、その人はそういう人、ということでしかない。それをどう受け入れるか というだけの話で、仮にそれが職場の許容範囲を超えていれば、発達障害如何によらず、クビになるだけだ。そうなれば周囲の人はもう関係はないだろう。

正直、職場の同僚 程度の関係値で受ける影響などたかが知れている。
本気で関わりたくなければ、部署異動願い、転職などいくらでもある。

改めて問いたいが、本当に困ってる?

持論:メディアでオモチャにしたい「こじつけ」ですよね

さも自分も関係する「社会的な問題」かのような論調。
それってこじつけで、本質的に嘘だよね、と私は思う。

職場に大ダメージを与えたり、手が付けられないような職員は、その上司なり同僚がどう工夫しようと、結局、遅かれ早かれ当人の責任で処される。

周囲の人間は「大変だったね」程度の話でしかない。
結果的に本当に困っている/困るのは、明らかに当人の方だ。

営利企業においてこれはごく自然な成り行きで、そのプロセスで"当人の周囲の人間が"どう捌くかなど、本質ではない。

会社の飲み会での愚痴大会くらいでしか盛り上がらないネタのはずだ。それを病名を掲げてメディアで流布し、しかもそれがそれなりの反響があるのは、なぜ?

ハッキリ認めたくないんでしょ。
「珍獣の生態に関心がある」と。

本質的に、それ以外、関係ない人が絡む理由が無いものね。

"こっち側"の、ひねくれた私には、残念ながらそうとしか思えないですよ。

本当に大変なのは、当事者とその家族なんだよ

ADHDやASDを患った方の課題を半ば強制的に理解させられ、同時に圧倒的に影響を受けるのは身内だ。家族・配偶者・子供。

私個人の見解では、当事者より周囲の家族の方が辛い。
主観的なバイアスは、当然かかっているだろうが、なぜか。説明する。

当人に悪意がない

ADHDやASDは先天性のものだ。故に、当然本人に悪意はない。

故に、身内はどれだけ被害を被ろうが、本人を責めようがない。
だが、事実として周囲の人間は何らかのダメージを負う。
ADHDやASDはそういうものだ。

孤独(カサンドラ症候群)

ADHDやASDの人間と過ごすうえで受けるダメージを言語化することは難しく、そのため、どれだけ親しい友人であっても、恐らく伝わらず、"努力不足/器の小ささ"と解釈されることになってしまう。

家族という一種閉鎖空間において、特に配偶者がADHD/ASDだった場合、相談する相手は家族内にはいないことになる。外で不満をぶつけようにも、職場や友人にも理解されない。

真に悩みを理解できる相手は、臨床心理士か、全く同じ境遇の人間しかいない。ハードルが高い。

だが、もちろん、"日常生活を送ることに支障はない"ので、我慢すればいいだけだ。クリティカルな問題ではない。だからこそ、臨床心理士にかかるのはハードルが高く感じ、故に、誰にも相談できない状況に陥るのだ。

この八方塞がりの生き地獄で参ってしまうことを「カサンドラ症候群」と呼ぶ。その身で体験しないことには、絶対に辛さを理解できないものだと、当事者として断言できる。

ちなみに私は夫婦で精神科を訪れ、臨床心理士と何度もカウンセリングを行ったりもしている。そのうえで、辛いと断言できる。

配偶者がADHDだったときの現実

このADHD、ASD、カサンドラ症候群というやつらは、カウンセラーという理解者を得ることはできても、根本的な解決策はなく、「理解し、耐える」か、だめなら「全てを捨てて逃げる」しか選択肢はない。

誰も悪くなく、"日常生活を送ることに支障はない"、ジワジワ食らうタイプの生き地獄だ。慣れるとか、そういう生ぬるいレベルじゃない。繰り返し「悟り」を必要とするような苦行である。

あらゆるメディアで脚色されているが、現実はそういう感じだ。

ちょっと考えればわかる「ADHDの人の意見」を流すメディアのクズさ

ADHDやASD当事者の言葉を拡散させることは、本来かなり慎重に執り行うべきだ。

そもそもメディアでさえ理解している彼らの"コミュニケーション能力に問題がある"という傾向を踏まえれば、その当事者が、TV等のメディアで"コメントを発信している"ことそのものに違和感を感じるべきだ。

だってそうでしょう。「コミュニケーションが苦手な症例を持つ人に、このコメントをどう思うかを話させている」のだから

ADHDやASDでなくとも、TVのスタジオで演者からの問いに答える行為は、極めて高いコミュニケーションスキルを必要とする。番組構成なり台本なりあるなら、一層通常のコミュニケーションとは言えないだろう。

そんな状況で彼らが「問題ない、幸せだ」と述べても、「問題ある、不幸だ」と述べても、私には「番組構成上、そう言わせるよう誘導しただけでしょう」としか思えない。

その人の症状次第であるから一概には言えないが、本当にADHDで困っている当事者ほど、メディアでの発信などという高度な芸当はできないのだから(というかそれができたら困らない)、つまりはそういうことだ。

結論

ADHD"傾向"程度でも、配偶者がそうである場合の人生は、本来成し遂げられた数々の可能性を諦め、人知れず我慢し、場合により嘘をついてでも秘匿し、何かを守るために相当の代償を払うものになる。

それを「幸せ」と感じられるかどうかは、その人の器量なり鈍感力に依存するが、事実はそうだ。

精神科医の先生含め、これまで会った全ての人から「あなたは精神的にタフだ」と評される私だが、少なくともウチはギリギリでやっている。いつ破綻してもおかしくない。

だからというわけじゃないが、きっと同じくらい、場合によりもっと辛いと感じている人は一定数いると思う。

だから、ADHDやASDを"オモチャ"としていじくって遊んだり、ビューのネタとして利用するなら、せめて、少なくとも界隈に一生恨まれる覚悟でもって、ご発言いただければと、願うばかりだ。

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