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私と自閉症兄弟の時間感覚の違いを考える

私には二人の息子がいて、二人とも自閉スペクトラム症の診断を受けている。

年長・6歳の長男の方は、知的発達も含めて周囲と比べて1年ほどゆっくり成長をしている。幼稚園での生活は3年目に入り、幾分かは自分でできることは増えたが支援なしではしんどいことが多く、特に行事においては多大な配慮をいただいている。
4月から、小学校の特別支援学級に進学する。

年少・4歳の次男は、年齢相当の成長スピードで自閉的な特性はそこまで強くない。現状は、日常や幼稚園の生活において特別な支援をお願いしなければならないほどではない。ただ、不安の強さ・繊細さには適切な対応が必要であり、苦手な部分に「あえて名前をつけるのであれば」という前置きありきで診断がついている。

とは言え、支援や配慮が不要な子どもなど存在しないわけで。
息子達が通っている幼稚園で、息子たちのがめちゃくちゃ特別なわけではない。皆それぞれ何かしら抱えていて、それぞれに適切な支援や配慮を必要としている。

子どもは十人十色で、みんな違う。それぞれのペースで、それぞれの発達の仕方で成長していくということを、幼稚園生活3年目にしてわが子だけでなく周囲の子たちの成長を見てきてリアルに感じられるようになった。そして長男も、周囲と比べれば幾分かはペースは遅くとも長男なりに成長をしている。

のだが。
年長になっても尚、毎朝「幼稚園に行きたくない」とぐずられると、いい加減にしてくれと叫びたくなるのが本音だ。


先週のこと。
その前の週から何度も説明して「今日だけは、外せない用事があるから預かり保育に行ってほしい」と懇願した日の朝。「行きたくない。預かりもいやだ」と泣かれた。

頭のどこかでは、こうなることは想像できていた。
イレギュラーにめっぽう弱く、天気も悪く、気圧も下がりっぱなしで調子が上がらないため、いつもより強く登園拒否をすることは予想していたのだ。

それでも、行ってくれないと困る。
あれやこれやとご褒美を並べ、やっとの思いで幼稚園にたどり着いたのだが「◯◯先生が来るまで待つ」と、寒空の下で何十分も待機。帰宅後、大きなため息をついたのは言うまでもない。

ここぞという瞬間を頑張ってもらえるように、普段から子どもたちの気持ちを尊重し、無理させないようにしている。毎日幼稚園行けなくても大人にはなれるのだから、たまには休んでもいいじゃないかと思っている。

そもそも、年中の3学期まで週5日登園できなかったくらい、体力面も精神面も不安定な子なのだ。それを一番理解しているのは、ずっとそばにいた私だ。

子どもたちが幼稚園を休んだところで、少しばかり私の時間が削られるだけの話。そんなもの長い人生の中で見たらほんの一瞬の出来事で、惜しくもなんともない。むしろ、今しかない時間を大切にしたい。

と考えてはいるものの、時間をかけてこの日のために準備をしてきたことをなし崩しにされると、鉛のような感情が込み上げてくる。

こういう時こそ、自分の感情と向き合う。

「私と子どもたちの時間の流れかたは違う」
ということを、きちんと理解していなかったように思う。

私の中では、今日も昨日も一昨日も、先週も先月も繋がっている。明日以降の未来も、おそらく同じように時間が続いていくと予想ができるし、昨日の続きを生きている感覚をずっと持っている。

長男の時間の流れは、断片的だ。

そもそもまだ、“流れ“としては理解できていないのだろう。
昨日・今日・明日の感覚ははっきりせず、ただ「今」を生きている。「寝たら明日になる」というのは理解しているが、太陽が見えない曇りの日の朝は「まだ夜だ」と布団に潜り込む。実感として時間の流れを感じ取れないため、目で見た情報から判断しているのだ。

野性的で、今この瞬間、自分がどうしたいかという本能のままに生きている。昨日の私の説明よりも、今この瞬間の気持ちが一番大切なのだ。

次男は、まだ成長途中。
日付の感覚も曖昧で、”今”より過去はすべて「昨日」になる。夕方に朝のことを話す時も、1年前のことも「昨日」という。少し癖はあるが、まだ4歳なので成長を見守っている。

長男のことも、次男のことも、あくまでも私から見える部分からの想像でしかない。それでも、こんなにも時間の流れ方・感じ方に違いがあるのだから、「昨日言ったでしょ」は使うべき言葉ではなかった。

子どもたちの一日と、私の一日を一緒に考えてはいけないなぁ。
私自身も、もっと今この瞬間を大切にしよう。

花奈


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