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価値観がぴったり重なった瞬間。


「筆が乗るんじゃないか」という夫からの提案で出かけた温泉宿。結局一文字も収穫なく帰って来たただの旅行となったのだが、ひとつ大きな発見のあるできごとが起きた。通称カメムシ事件である。

今回訪れたのは山奥にひっそり佇む温泉宿。部屋に入ってすぐ、窓の外の風光明媚な木々や川に心を奪われたのもつかの間、その窓にカメムシが2匹へばりついているのを見つけた。まあ外側だろうと思い近づくと、内側。部屋の中。

夫とふたりで騒ぎながら、わたしが窓を開け、夫がカメムシを誘導するという連携プレーによって、彼らを森へ帰した。

そのあと、夕飯のことで聞きたいことがあったのでフロントに降りると、わたしたちと同世代くらいのご夫婦が、スタッフさんと話し込んでいる。盗み聞きするなんてはしたない、でも自然に聞こえてくるものは仕方ない、旦那さんの声が大きいんだもん…と思いながら近くに立って待っていると、どうやら彼らの部屋でもカメムシ事件が起きていたことがわかった。何匹だったのかはわからない。

そしてそのご夫婦は、今日はもう自宅に帰りたいと思っていて、これは自分たちのわがままであるとわかっているので宿泊料は戻って来なくていい、申し訳ないというようなことを言っていた。

帰るのかぁ。宿のおいしいご飯をあきらめて、このご夫婦は帰るんだなぁ。まあ虫が苦手だったら本当につらいだろうし、そういう人もいるよなと思う。言い方も丁寧で上品な夫婦だった。でもこの宿は安くはない。1泊2日でだいたい我が家の1カ月分の食費ほどの宿泊費。もう30代なのに、最近ますます食い意地の強さに拍車がかかってきているわたしは、自分なら帰るにしても晩ご飯は食べて帰りたい!と思った。許されるなら、わたしがその人たちの分もいっぱい食べたいとも思った

部屋に帰ってすぐさま、夫に「カメムシが理由で帰るお客さんがいるようだ」と話した。すると夫は、「そういう人がいるのもわかるけど、せっかく高い金払ってるから、俺だったら晩ご飯だけでも食べて帰るねえ。その人たちの分も食べてあげたいね」と言った。

価値観が、ぴったりと、一致した。


結局、夕飯会場にそのご夫婦の姿はなかった。夫婦の数だけ、カメムシ事件の形はある。あの人たちの分も食べてあげたいくらいだね!と言っていた我らは、結局コースの途中でお腹いっぱいになって、名物の天ぷらが出てくる頃には「いや~満腹ですなあ~」と背もたれに寄りかかった。

もしわたしが夫に「カメムシが出たから帰ろうぜ!ご飯なんて食ってる場合じゃない!」と言われたら、「やだ!食べる!」とけんかになっていたかもしれないし、向こうの奥さんが帰りたいと言ったときに旦那さんが「いや、もったいないから我慢して泊まろうよ。それかせめて晩ご飯くらいは食べて帰ろうよ」と説得したらこれまた揉めるだろう。カメムシというか虫に対する価値観が合っているかどうかは、結構大事かもしれないと思った旅だった。


おわり


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