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格差が見えるかどうかは、個人の資質

 2018年の春に大反響をよんだ「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由という記事の方が主張したい社会課題はよく分かるが、残念ながら、筆者の応援を得たい「田舎者の中の都会も田舎も知る人間」でも、おそらく「読解力」のなさで、伝わらない気がしました。筆者のように、深く分析する力も、世の中の大半の方にはないのです。「田舎者」など、否定的な言葉のみをキャッチされ、炎上を起し、全体的に言いたいことが、伝わらないのではないか、と思いました。

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由

 記事の中では、都会と田舎という、大別した比較と、田舎の中にある個人レベルの重層的な格差があると論じていますが、この格差が「見えない」人が大半なのです。
 筆者は、「見えていない」ことに、格差問題の危機感を感じていますが、私個人の意見からすると、「見える」か「見えないか」は、経済格差や教育格差、地域格差、家庭格差など、「外的要因」だけに起因しておらず、むしろ、生来的な素質のようなものだと思っています。

 昨今、社会問題としてブームとなっている「生まれた家庭による教育格差」が盛んに叫ばれますが、私は、中学時代、つまり、25年以上も前に、この格差にはっきりと気が付いていました。筆者が怒りを感じると書いてあるように、25年以上前に怒りを感じた中学時代をよく覚えています。生まれてわずか十数年で、社会の中で自分の人生がすでに「不利」と位置付けられている現実に、愕然としたものでした。

 しかしながら、わたし同様に田舎生まれで、家庭環境も悲惨な同級生たちが、みんな自分と周りの同級生との格差に気がつき、不条理な格差の階段を必死に登ったかというと、格差に気付きもせず、登ってない同級生が大半だっただろうと思うのです。
 田舎者で家庭環境が最悪の同級生たちは、中学を卒業後は、Fランク高校へ進学するか、中卒でした。15歳の時点で、格差という見えない社会からの非意図的な「選抜」によって、人生の可能性を狭きものに固定され、生まれたときからすでにあった格差が、さらに大きな覆しがたい層へと、落とされてしまっていても、まだ、格差に気付きもしない同級生が大半に私には「見えました」。

 15歳で、不条理にも格差によって学力に差がつき、どんどん上に登っていく格差が上の裕福な家庭の子どもたちがいる一方で、残酷にもわずか15年で社会からの見えない格差によって、選択肢の少ない世界へ強制送還され、社会から見捨てられたかのような同級生たちを、不憫に思った記憶があります。しかし、私が田舎であっても、経済力や家庭環境に「恵まれた存在」だったら、果たして、15歳の時点で格差が「見えた」だろうかと疑問に思います。
 おそらく、恵まれているがゆえに、見えなかっただろう、と思います。
私自身が、逆境に置かれた環境でなければ、社会はみな平等、学校の成績は、個人の能力と努力のみの結果として、「格差」など見えなかったでしょう。

 格差はしばしば、下の階層が絶対的に不利と語られがちですが、筆者も述べているように、格差に気付きやすいのは、圧倒的に格差の下の層なのです。その点は、社会問題に、「気付き」「発見」する目や感性が育ちやすい点で、下の層の方が有利な面があるかもしれません。それにも拘わらず、同層で、格差が「見える人」と「見えない人」に分かれるのは、個人の資質の問題だと思うのです。

 同様に、田舎の格差が上の層(筆者や、筆者が同感を求め、格差問題解決に期待する層)の中でも、また、「見える」「見えない」は、個人の資質レベルの問題だと思うのです。
 記事で、大反響を呼び、筆者が謝罪までして味方につけたかった「田舎の格差が上の層」から、批判が殺到したのは、私自身は、残念ながら、個人の資質で、何も「見えない」連中であり、謝罪ブログを書く必要もなく、批判など無視でいい、彼らに何を言っても、個人の資質で、見えないものは死ぬまで見えない。連載などしても、彼らは「変わらない」だろうと思っています。

 筆者は、地域格差を語ることがタブーのような風潮があると書いていますが、本当にそうでしょうか?子どもの教育格差を声高に語るNPO法人を見ても、私が中学時代に気付いた程度の格差くらいしか論じていないことから、地域格差を語ることがタブーなのではなく、格差問題をテーマに活動する学習支援団体のNPOなどの方も、大して深く様々な格差が「見えていない」のでは?と思っています。

 格差は、自分が所属する人の集団の中で、相対的に低い方が、「見えやすい」です。しかし、「見える」か「見えないか」は、個人の資質レベルの問題であり、はっきりいって、これは「どうしようもない」と思っています。
例え、「見えても」、格差に怒りを覚え、格差の階段を登るか登らないかは、個人の問題です。

 最後に著者の記事が示す「情報強者」の「情報」が意味するものは、物質的な「見える情報」のことです。私のように子ども時代の虐待体験や、成人後の虐待の後遺症に長く苦しんだ経験、精神科の閉鎖病棟への入院歴、生活保護に一時的になり、抜け出すことが難しい生保から抜け出し生活再建できた経験など、一般的な大衆に「見えない情報」を有する私は、大した情報を有していない「情報中途半端者」であっても、劣等感がありません。私は「情報強者」が持てない「情報」を持っている点で、「情報強者」の内包する「脆さ」が「見える」からです。

 常に「変化」する時代や、もっと大きく言えば、地球規模の予期せぬ変化によって、「情報強者」の持つ「脆さ」が、如何に致命的になる可能性があるかも、想像できるからです。しかし、「情報強者」の中でも、また格差もあり、「見える」能力は、個人の資質の問題だろうと思っています。そして、「情報強者」ゆえに抱える「脆さ」も、個人の資質によって、また個人差がはっきりあるものだと思っています。

 結局、他人は変えられないのだから、自分がこうありたいと思う生き方をしていくだけで、充分だし、短い人生、そして少ない資源の中、それさえも限界があるのだから、自分が好きに生きればいい。それしかできないと私は思います。何かしら解決策があるとしたら、学校教育の現場で、みんな平等という教育を止めるべきです。格差を認め、子どもたちにも不平等さがあることを教えるべきかと思います。

※虐待の後遺症については以下の書籍に詳しくまとめてあります。精神科医の和田秀樹氏による監修・対談付き。


虐待の被害当事者として、社会に虐待問題がなぜ起きるのか?また、大人になって虐待の後遺症(複雑性PTSD、解離性同一性障害、愛着障害など多数の精神障害)に苦しむ当事者が多い実態を世の中に啓発していきます!活動資金として、サポートして頂ければありがたいです!!