完璧という檻について

『完璧』とは『絶望』だヨ

この言葉は、漫画誌の中に燦然と輝くオサレバトルマンガの金字塔
ブリーチの登場人物・涅マユリ様のお言葉である。

どうも、おはこんばんちは。僕です。

涅マユリ様ほどの崇高な意志はないものの、僕自身、完璧という言葉には妙な忌避感があります。
マユリ様もおっしゃっておりますが、この世に完璧なものなど存在しないと思うからでしょう。

村上春樹氏もデビュー作で言ってるよね。

『完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。』

ってね。
まあ、正確には物語の中に登場する架空の作家のセリフですが。

とまあ、マユリ様も春樹様も完璧というものを否定しているのですから、完璧などというものはこの世に存在しないのでしょう。

実際問題、完璧ってなんだと思います?
辞書的には「一つも欠点がなく、完全なこと。完全無欠。」などと説明されていますが、誰にとって、どういう状況で、どういう用途で完璧だというのでしょうか。

そう、完璧というものはあくまで限定された場所でしか使えないものなのです。私にとって完璧。テレビをダラダラ見るときに完璧。疲れたときに完璧。落ち込んだときに完璧。などなど、とある限定されたモノ・コト・ヒトの中で完璧は存在していることになります。
しかもそれは、必ずしも永遠に完璧であるとは限りません。あくまでも現時点での話なのです。

こう考えてみると、完璧がなんだか陳腐にも思えてきませんか?

よく、完璧主義という人がいますよね。
仕事はもちろん、日常のタスクにおいても常に完璧を求める人のことです。
仕事や日常の行動の精度を上げることは非常に重要なことですが、果たしてその完璧は誰にとっての完璧なのでしょうか。
おそらくいわゆる完璧主義という人たちの多くにとって、それは自分にとって、あるいは自分が考える世間一般にとって、ということでしょう。

完璧というものはこの世に存在しない、そうは思うのですが、厄介なことに個人の価値観の中には完璧というものは確かに存在します。
それゆえ、自分の価値観の中にある完璧を追い求めると、仕事や対人関係で火傷することになってしまうのです。

完璧というものは(その人にとって)完璧なものだけに、他者の完璧とはけして相容れないものなのです。

だから、もしも完璧を求めるというのならば、その立ち位置は必ず相手でなければなりません。相手を慮って、相手のための完璧を追求することはとてもよいことだと思います。
ただし、完璧だとドヤったりしたら台無しになるのでご注意を。

なぜならその人にとっての完璧を、他人が提供することなど、完璧に無理な話だからです。

だから、完璧ではなく自分にとってのベストを追求することがたぶん正解です。誰かを思い、その誰かのために、自分の持てる力のすべてを注いでいく。そのときそのとき全力で対応するのが、最も完璧に近づける方法でしょう。
ともすれば自分の中の完璧は可能性を殺す可能性すらありますしね。

あれ、ところで、僕、完璧がないとかいいつつ、完璧という言葉を使ってしまってましたね。

なぜならその人にとっての完璧を、他人が提供することなど、完璧に無理な話だからです。

まあ、使い方によっては使えるんですね、完璧という言葉も。
そういうケースとしてご認識ください。
だってほら、完璧な文章が存在しないなら、完璧なライターも存在しないということですので。。。。

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