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noteは衝動の芽を置く場所

言葉で伝えられることなら言葉で。
態度でしか伝えられないなら態度で。
歌で伝えた方が伝わるなら歌で。
踊ることでより楽しく伝わるなら踊りで。
ほかにもいろいろ。

なぜ詩を書いているのかを考えながら、この文章を書いている。
世の中には物事の骨子を作ったあとで、肉付けをしていく人が多い、らしい。

残念ながら、昔から構造化や整理が苦手で何かを話すときも、文章を書くときも、その場で浮かんできたことを繋げていく方が個人的にはやりやすいし、しっくりくる。

仕事のときは誰かしらへの説明責任が発生する場合が多く何とか事物を整理し、解釈を加え構造化するが、それでもやはり苦手意識はそれなりにまだ残っている。

冒頭の話は言葉でも態度でも歌でも踊りでも、誰かに伝えたいことは、その人の一番得意な方法で、一番好きなやり方で、何よりも一番伝わると思う形で伝えるのがいいんだろうな、と急に思ったからで、上述したとおり、まとまった考えもなければ、ましてや答えなどないまま書いている。

毎日のようにアナグラム詩を書き続けて感じたのは、自分は言葉で伝えるという方法が一番好きなやり方だということ。
そして一番得意というには克服すべきことが多いということ。

なぜ得意といえないのか。それは完全にコントロールできないから。
そのときに思いついた言葉は、きっとそのときにしか出てこないことが多くて、その言葉が入っている引き出し自体がどこにあるのか、自分でもわかっていないことが多いというのがその理由。

そして詩に関しては、伝えたい相手がはっきりしていない場合が多い。
ただ自分の頭のなかに浮かんだ写真のようなイラストのような、時には抽象画のような景色を言葉として過不足なく、具体性を持たせすぎずに詩という形で残しているので、人によって捉え方は様々で、思い描いたものに差異が発生する。

特に骨子や構造がなくても、言葉自体はいろいろと出てくるし、意味も繋いでいくことができる。
ただし、コミュニケーションとして見た場合には個人的には不完全。
とはいえ、アートとしてみれば詩は個人の情念、思想などを多分に孕んで可視化されたものだと思うので、それはそれで完全。
他人の考えが入り込む必要はない。

そんなことを考えていたら、自分のなかにはまだ衝動や発芽を待っている可能性の種がたくさんあることに気づいた。
何か意見をまとめたい、思考を整理したいのであればこのような形で明文化すればいい。その前に文章の構造化もきちんとやればなお良し。。

noteは衝動の芽を置く場所、という意味合いが強いのかもしれない。
自分で花を開かせるまでやる場合もあれば、読んでくれた人に水や養分を与えてもらって花が咲く場合もある。

うん、何となくしっくりきた。

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