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【エッセイ】蔵のある風景

 私が住んでいる地域には古い街道が通っている。
 なにしろ古い街道だから、道幅は一車線分だし、もちろん一方通行。車で走ろうとすると不便だろうけど、自転車で走る分にはじつに快適。なので、私はときどき自転車でその街道を隣町まで走る。所要時間は三十分ほど。

 この街道沿いには、土蔵のあるおうちが何軒もある。母屋は洒落たイマ風の洋風住宅になっていても、土蔵は健在だったりする。
 そんな風景を見ていると、不思議な感覚がしてくる。

「今」と「過去」が同時に存在する感覚。

 その蔵は何世代も前を生きた人たちの暮らしの中に在ったもの。それが今を生きる人たちの暮らしにも活かされている。「昔のモノ」として「今」と切り離されている骨董品などとは、そこが決定的に違う。

 と、今日、自転車を漕ぎながらあらためて考えていて、帰宅後こうしてnoteに向かってみたら、以前にもこんな文章を書いていた。

 この文章の中にさらに引用している詩では「今日」と「明日」について、やっぱり同じようなことを言っている。

 どうも私は「時間」に境界を引かないで、ただ感じたいらしい。

 「時間」の概念は、この地球に人間が現れ、文明を築く中で生じたもの。もしかすると、私は人間のいない地球に在る時間を感じたいのかもしれない。
 それが過去なのか未来なのか、わからないけれど。

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