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2022古文書講座実地研修②~御諸皇子神社・清川歴史公園~

 いでは文化記念館では現在6月から10月の第2・第4木曜日に、出羽三山山岳宗教研究所主幹である後藤赳司先生を講師にお招きし、古文書講座を開催しています。
 計10回古文書講座がある中の1回は実地研修を行う予定で、今回は10月13日(木)に開催し、ルートは庄内町の瀬場~清川に決定しました。いでは文化記念館の学芸員が今回の参加者を案内します。

御諸皇子神社

御諸皇子神社の随神門(仁王門)。金剛力士像が安置されています。
随神門(仁王門)を特別に開けていただきました。
金剛力士像が見えます。

 はじめに、清川の名前の元となった川が目の前に流れる御諸皇子神社(ごしょのおうじじんじゃ)にお伺いし、正木宮司にこの神社についての歴史をお聞きしました。
 宮司の口伝によれば御諸皇子神社はもとは尼寺で、明治初期の神仏分離の際に神社となりました。そのため、仁王門には木造の金剛力士像*が安置されています。現在の社殿は1800年に再建されていますが、『義経記』(ぎけいき)*に「五所王子」(ごしょおうじ)*とあり、創立自体は鎌倉時代以前とされています。義経や武蔵坊弁慶は平泉へと向かう際にこの神社に立ち寄り、一夜を明かしたとされます。

住宅街の中に突然現れる神社へと続く道。湯殿山慰霊碑もありました。
北楯大堰にかかる御橋。この「御宮橋」の文字は正木宮司ご自身が筆をとったものだとか。

 御諸皇子神社の御祭神は御諸別命(みもろわけのみこと)で、良縁に恵まれるように祈り、髪の毛を社殿の格子に結んだことから、御諸皇子神社は近年縁結びの神社としても注目されています。

御諸皇子神社本殿の様子
※特別に開けていただきました。

 山形県の内陸部(山形市や新庄市など)方面から出羽三山に参詣する際の清川登山口で、最上川から舟下りを行って羽黒古道(現在の石段がある表参道ではない、昔羽黒山参詣に使用されていた道)を経て参拝されました。その際、五所王子を経由したとされています。
 また、代々宮司を務める正木家は羽黒の末派修験で、御諸皇子神社の社殿は羽黒権現を模しているそうです。

当日の正木宮司による解説の様子

清川歴史公園

 清川歴史公園は2019年にオープンした新しい施設です。清川関所・川口番所と船見番所を復元した街歩き拠点施設で、土日には手打ちそばやうどんなどの食事ができるお食事処もあります(施設内展示等撮影禁止のため写真はありません)。
 庄内町の地域おこし協力隊の方から、清川歴史公園で展示されていた『荘内藩の参勤交代』展の説明をベースに、清川関所と庄内藩の関係や、羽黒古道と清川の歴史、御諸皇子神社から羽黒山へ向かうルートについて丁寧に説明してくださり、様々な質疑にも対応してくださいました。

 御諸皇子神社と清川歴史公園での解説・説明により、さらに濃くなった、羽黒山への立谷沢・清川側からの参拝道。現代は羽黒山石段参道からの登拝がポピュラーですが、かつては立谷沢・清川からの登拝も盛んだったことがわかりました。羽黒山のいつも見ている側の裏には更なる歴史と文化が存在し、参加者の皆さんにも受け継がれていくことでしょう。

脚注

・金剛力士像
那羅延(ならえん)金剛力士と密迹(みっしゃく)金剛力士。神仏分離の情勢の際に移動があった。その時運ぶため解体した際、胎内から作成年や作者の名が書かれた記録が発見された。その記録によると、宝暦11年(1761年)に完成したとされる。作者や時代がはっきりしているという点ではこの時代の数少ない仏像の一つで、貴重な彫刻である。いずれも木造で彩色、高さ3.8m。庄内町有形文化財。

・『義経記』(ぎけいき)
源義経と武蔵坊弁慶などを中心に書かれた書物。全8巻で作者未詳。内容としては『平家物語』よりも源義経がかなり美化されているため、群雄や時代の変革を描いた軍記物語だとか、義経の生涯を綴った伝奇物語だともいわれる。成立は室町時代と推定されている。

・五所王子 (ごしょおうじ)
御諸皇子神社の名のもとになった地名。宮司口伝によると、源義経・武蔵坊弁慶一行16名が道中の安全祈願のため、青葉の笛・弁慶の祈願文など5つの宝物が供えられている。

参考文献

『庄内小僧』6月号, コミュニティ新聞, 2020
『立川町の歴史と文化』, 立川町史編纂委員会, 1961

参考サイト・URL

・国立公文書館ー歴史と物語ー18.義経記

・山形県庄内町観光情報サイトー観光スポットー御諸皇子神社

・清川歴史公園【公式】