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爺杉の近くにはもう一本大杉があったというお話【羽黒山小話】

 羽黒山の五重塔の近くにそびえたつ大杉・爺杉(注1)。この爺杉ですが、実は爺杉の近くにはかつてもう一本大杉があったことをご存知ですか?今回はその大杉と爺杉のお話です。

爺杉とは

出羽三山神社境内(五重塔そば)に爺杉があります。

 爺杉とは、羽黒山にある天然記念物の杉です。昭和26年(1951年)6月9日に「羽黒山の爺スギ」として国の天然記念物に登録されました。その樹齢は1000年以上といわれ、幹も太く凛々しくそびえたつ巨木です。幹には注連縄(しめなわ)が巻かれているため、五重塔の付近に来たらどれが爺杉であるかは一目で分かると思います。

爺杉の近くにあった大杉・婆杉

爺杉

 この爺杉ですが、婆杉と呼ばれる木がかつて近くにありました。

 五重塔の西がわに、じい杉とばあ杉と呼ばれる二本の大杉が梢をそろえてそびえていた。
 近年の大風の際に太い方がたおれてしまい、現在では細い方の一本だけがのこっている。細いといっても、みたところでは周囲が八メートルからあり、山中第一の巨木である。

『羽黒山二百話』戸川安章著 第五三話 じい杉とばあ杉のこと

 戸川氏の言う「近年の大風」というのは、明治35年(1902年)にあった暴風(台風という記述もある)のことです。意外にも婆杉が倒れたのは近代になってからの出来事であるということです。

『羽黒山絵図』*¹ の一部(五重塔周辺)

 上記の『羽黒山絵図』の他に『三山総絵図』*²、『湯殿月山羽黒三山一枚絵図』*³ にも同様の描写があります。ここで言う「祖父杉」が爺杉で、「祖母杉」が婆杉を意味しますが、現在五重塔のそばに立っている「爺杉」は実は絵図のどちらを指すかわかっていません。

残った杉の呼び名について

 今でこそ「爺杉」と呼ばれるこの大杉ですが、その呼び名になるまでは紆余曲折がありました。

そのどちらがじい杉で、どちらがばあ杉かという段になると、「それは太い方がじい杉に決まっている」というものもあれば、「人間とちがって、植物のことだから細い方が男だろう」といいだすものもあり、もっともらしい顔をして、「木の皮がひだり巻きになっていれば男だし、右巻きになっていれば女だ」と説明するのもあったりして、さっぱりまとまりがつかない。

『羽黒山二百話』戸川安章著 第五三話 じい杉とばあ杉のこと

 なんと、残っている細い木の方と倒れてしまった太い方は、どちらが爺杉でどちらが婆杉なのか、皆各々の見解こそあれ、厳密にはどちらがどちらであるかはそもそも事前に決めていなかったようです。

そのうちに、だれがいいだすともなく、のこっている方の木を親杉と呼ぶようになった。それがちかごろでは、また、じい杉と呼ばれている。

『羽黒山二百話』戸川安章著 第五三話 じい杉とばあ杉のこと

 どちらが爺杉・婆杉問題では決着がつかなかったため、残った方を親杉と呼ぶようになり、それから爺杉へと名前が移り変わりました。『羽黒山二百話』は昭和47年(1972年)12月に出版されているので、少なくとも天然記念物としての登録があった1951年から1972年までの約20年の間には爺杉という呼び名は地域に定着していったと推測できます。

まとめ

 幹の太い爺杉よりも、さらに太い婆杉があったとされる羽黒山。実際に石段を上る際、爺杉を見ることができます。
明治に婆杉が倒れてから今現在まで様々な気候の変動や台風・地震などの天災がありましたが、爺杉は雄大にその根を地に下ろしています。
 今度羽黒山へ赴く際には、ぜひ爺杉に注目してみてください。

注釈・脚注

注1 爺杉:祖父杉・爺スギとも書く。じじすぎ、じいすぎなどの様々な呼び方・記載があり、婆杉も同様に表記ゆれが見られる。

*¹ 『羽黒山絵図』:文政13年(1830年)、五藤による写。いでは文化記念館所蔵。羽黒山や月山、その麓が描かれた絵図。
*² 『三山総絵図』:明治12年(1879年)、三神社社務所出版。いでは文化記念館所蔵。鳥海山や飛島~出羽三山までが描かれた絵図。
*³ 『湯殿月山羽黒三山一枚絵図』:寛永年間(1848年~1853年)、画・錦江斎春、彫工・高橋良助。いでは文化記念館所蔵。出羽三山が描かれた絵図だが、湯殿山は雲に覆われている描写になっている。