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羽黒山から月山への道にはいくつもの掛け小屋が建っていたという話④~弥陀ヶ原-月山~

 現在、いでは文化記念館の2階では出羽三山の古写真の展示を行っています。羽黒山の登山口から月山へ続く道にはいくつもの掛け小屋(月山登山者への食事や休憩・宿泊のための臨時の小屋)が建っていました。そのような風景をおさめた、昭和初期の出羽三山の写真が展示されています。

弥陀ヶ原/御田ヶ原

弥陀ヶ原(御田ヶ原)の古写真

 現在は8合目まで車で行くことができますが、半合目より参拝のために馬や徒歩で登山していた人々にとって、突然木々がなくなって高山植物が咲き誇るお花畑や大きな湿地が一面に広がる様は驚きや感動とともに、何か不思議な力が働いている場所なのではないかと感じたことでしょう。
 ミズバショウだけでなく、白色のシャクナゲ、クロユリ、ウスユキソウなどが咲き、自然の花園を形成しています。

 夏には百数十種の花々で埋め尽くされる弥陀ヶ原は、明治以前に祀られていた月読命(つくよみのみこと)とその本地仏、阿弥陀如来(あみだにょらい)が祀られていました。そのため「弥陀ヶ原」は神々が御田植えをされたように見えることから「御田ヶ原」ともいわれました。この御田植えされたと伝えられているのがいわゆる池塘として見られます。「弥陀ヶ原」と「御田ヶ原」の2つの呼称は明治の神仏分離以後も慣例的に使われています。

 写真右の弥陀ヶ原小屋は、現在の月山中の宮御田ヶ原参籠所がある場所に昭和56年まで建っていました。写真中央は御田ヶ原神社で、建物はかつて月山神社の御室で使われていたものだそうです。
 写真には映っていませんが、写真の左側には霊祭所があり現在大小いくつもの地蔵が祀られています。これらの地蔵は、8合目手前にあった旧賽の河原の裏に頭部を下にして丁寧に埋められていたもので、昭和63年に掘り起こされこちらへ移されたものです。
 また、この茶屋では江戸時代に「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行が昼食をとったそうです。ここに咲くニッコウキスゲを酢の物として出していたとか。

 ここから脇道に行くと東補陀落(ひがしふだらく)と呼ばれる場所に出ます。そこから南方には御浜池や濁沢に出ます(注1)。

六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原(中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。こや有)御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

『曾良旅日記』河合曾良

佛生池(仏生池)

仏生池の古写真

 写真は戦前の頃のものです。小屋は今も経営されています。
 「佛生池」の由来を尋ねてみると、江戸時代の文書*¹の佛水池(ぶっすいいけ)のくだりには「釈尊の生まれる日に八大竜王(注2)が下界の悪習をはらおうと聖なる水を湛えて清めた池が佛生池」と、大意はこのように書かれています。
 また、「佛生池は文字通り『仏の生まれる池』で、道者はここで死んで水をのみ、魂となって頂上へ行き、月山神社にお参りして生命をもらい、それから(月山山頂にある)神饌池で産湯をもらって生まれ変わる」のだそうです。池の中にはかつて阿弥陀如来(地蔵尊)が祀られており、現在、池のほとりに真名井神が祀られています。また、ここから上は古来懺悔の場所と言われる「行者返し」があります。
 「佛生池」は先ほどにもあるように「仏水池」や「毒池」(ぶすいけ)という呼称も使われており、「佛生池」(ぶっしょういけ)という呼称も使用されています。

現在の佛生池小屋

 この小屋では雷豆腐が名物です。石臼で大豆を挽き、朝夕小屋名物の「雷豆腐」をつくり、赤飯を蒸したそうです。石臼のゴロゴロという音が、小屋近くまで来た道者には雷の音に聞こえたから名付けられた名前のようです。

月山

 山頂には月山神社があり、御室(おむろ)と呼ばれていました。月読命(つくよみのみこと)が祀られ、農耕と五穀豊穣、航海、漁労の神として広く信仰を集めています。
 明治までは阿弥陀如来が本地仏として祀られ、御室を囲む石垣には十三仏が祀られていました。羽黒山から月山にいたる13の小屋はこれに由来するといわれています。
 さらに、庄内地域では祖霊信仰の亡くなった人びとの魂は低い山(端山:はやま)に33年いた後(モリ供養)、月山のような高い山(深山:みやま)に鎮まると伝えられています。

月山神社の古写真(戦前)

 写真を見てみると、基本的な建物の配置は現在とほとんど違いがありません。右側の一番手前にある小屋が祓い場。お参りの前にお祓いをする場所で
道者はここで草鞋を脱ぎ、本殿の前で素足になって参拝しました。
 祓い場の奥、藁がかけてある小屋は直務所(じきむじょ)といって、神社に奉職する方々が生活していた場所です。そのさらに奥、屋根の先端が見える建物が、御本殿の御室です。
 画面の左奥にあるのは神札授与所。ここで五色の梵天やお守りを求めることができました。ここで求めた梵天を左手前の屋根だけみえる御霊供養場にお供えしました。供養場の右手前の建物は霊祭所です。
 中央には「官幣大社月山神社」の文字が見えます。戦前、東北唯一の官幣大社が月山神社だったからですね。

まとめ

 ここまで4回に分けて記事を記載しました。7合目から下は現在なかなか足を運ぶ人も少ないです。それ故に新たな発見もあったのではないでしょうか。かつての小屋はほとんど姿を消してしまいましたが、今回の記事で使用した古写真はいでは文化記念館の2階で見ることができますので、ぜひ写真を眺めながら当時の様子を想像してみてはいかがでしょうか。

脚注・参考

脚注
(注1)登山道から東補陀落までも往復で数時間かかるため、芭蕉や曾良は行かず、記載してあるものは原文の状態を見る限り追記されたもので伝聞情報である*²とされる。
(注2) 八大竜王:仏教世界における龍の族長。龍であるがため、水のご利益があるともいわれる。また、釈迦の眷属として描かれ、仏法の守護者である。

参考
*¹『三山雅集』,東水選 呂茄発起, 1710
*² 出羽三山歴史講座第2回『奥の細道 曾良旅日記の謎』講話より, 2023
『奥の細道 芭蕉と出羽路』,早坂忠雄, 1988
『曾良旅日記』, 河合曾良, 1689~1691

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