自主性の育成と放置はちがう

私の母は、比較的子どもがやりたいことをさせて、子育てをしていたように思います。
愛情も、それはそれは深く感じられます。
だけど、母の子育てに疑問を感じたのは、自分が親になった時。

母が言うには「放任主義」の子育てをしていたそうです。
のびのびと、自分のやりたいことをさせて育てるというやり方をしているつもりだったようです。
なぜ「つもりだった」かというと、私は選択肢が欲しかったからです。
子どもに【無】の中から、したいことを見つけろと言うのは無謀です。
結局、習い事はほぼ兄と同じもの。
少し大きくなってから、やりたい事が見つかっても、タイミングが遅すぎて出来ないという状態になりました。
つまり、私がやりたい事して育ってきたかというと、「子ども時代はやりたい事を見つけることすら、ろくに出来なかった」と言えます。
かろうじて出来たのが、20才目前に見つけた大学進学と言えるでしょう。

放置されて育つというのは、さまざまなチャンスを失くすということです。
だから私は子どもたちにある程度の選択肢を与えます。
そうすると2才違い姉妹ですが、習い事も進学した小学校も違う選択をしました。
それもそのはず。
二人は違う人間です。
同じ親から産まれて、同じ環境で育てていても、幼児の段階で違う考えを持つんだなと発見しました。
当然のことかもしれませんが、これは子どもたちのおかげで気づくことが出来たことです。

そんなわけで、私はある程度の選択肢を与えながら、子育てをしています。
いつか自分たちのしたいことを、自力で見つけることが出来る日が必ず来ると信じて。

今日の日記

予定日超過2日目。
なんだか散歩に出かけられず…
娘たちは全国統一小学生テストを受けに行きました。
手応えは散々だったようですが、今日見つけた課題をどうしていくかを考えられたようなので、良かったです。

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