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【週末には映画の話を】(1)『約束』


ある兵士が王女に恋をした。映画『ニューシネマパラダイス』に出てくるエピソードである。
王女は私の部屋のバルコニーの下で100日待ってください、そうしたらあなたのものになりましょうと告げる。兵士は雨の日も風の日も雪の日も蜂に刺されても椅子に座って待ち続け、やがて生気を失い真っ白になりながらも99日目の夜を迎える。約束の100日まであと数分というところで兵士は、いったいどうしたことか、椅子を片付け去ってしまう。
映画の主人公の若者はこう答えを出す。もし約束が守られなかったら絶望だからだ! 99日でやめれば王女は自分を待っていたと思い続けられると。身分の差の越えがたさとともに、王女の心変わりはふつうの変化とは違う重く堪え難いものだという意味の答えである。

ロラン・バルトがこの映画よりずっと古い著書で紹介するところによると、この話は中国の物語で、男は政府高官、女は酒場の歌姫である。政府高官の男もやはり99日目に立ち去ってしまうのだが、身分は逆転しているから身分の差による怖れとすることはできない。約束が守られないのではないかという疑いも小さい。99日間の努力をドブに捨てさせ、自分はやったという達成感も、結果を聞きたい気持ちも棒にふるほどのものは一体全体、何であろうか。

私はこうかんがえる。この男たちは約束の履行による正当な報酬としての愛ではいやだったんだと。100日目を迎える前に胸に飛び込んで欲しかった。5日目でも50日目でも99日目でも、とにかく契約期日より前でなければ、愛の純性が保てない。約束など要らないのだと。

チェーホフの短編小説『賭』では、死刑と終身刑ではどちらが残酷かと議論するうちに、老獪な銀行家と若い法律家とのあいだで意見が割れ、15年の幽閉に耐えたら大金をくれてやるという銀行家の賭けに法律家がのる。ここでもまた、あと1日たてば一生遊んで暮らせる大金が手に入るというのに、法律家は自ら監禁を解いて出て行ってしまう。

これらはいったいなにを意味するのだろうか。

単純化すると、その契約遂行が困難を極めるほど、行為そのものの純化が進んで完遂の報酬をもらいたくなくなる、ということになる。
私はやったのだ!という自ら確証できることに対して、リターンはそれをむしろ穢す。約束された交換は私の行為を穢しうる。
なにかの冗談かとおもうくらいの逆説。でも私はわかる。99日間誰かを待ったことも14年と364日間幽閉されたこともないが、私もそうするような気がする。
約束はした瞬間だけが大事で、そのあとの報奨も対価も名誉も喝采もなにも要らない。だって私はやったんだから。

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